考察 巻第3ー挽歌420~425 石田王 丹生王 磯城皇子 紀皇女 その参

1月26日

 

昨年書いた記事のその後です
丹生王=紀皇女 ということで 彼女の生涯を妄想して
文を書いたのですが
あの記事をブログに書いたその晩 私は お風呂に入って 頭を洗いながら
う~む やっぱり 紀皇女のほうが先に死んでいて
石田王が 悲しくて歌を詠めないから 山前王に代わりに詠んでもらったのかな。。
と考えておりました。
でも そうすると 石田王が亡くなった時の歌が 紀皇女作ってことは
ありえないわけだし。。
うがー!と 頭を洗いながら 悶々としてたわけです
その時 頭の中に ふと きれいな女性の手の映像が
浮かんできました
いつも こうやって 突然 ふっと 浮かんでくるのです
きれいな薄物の長袖をはおったような 天女の服装の感じの
ふんわりした袖口から出た 白い美しい手です
黒い背景の中に その手は 光り輝いていました
右手かな 一つだけ。
そして 同時に
 
ありがとう。。
と 頭の中に 聞こえてきました
いや 聞こえるっていうんじゃなくて
感覚っていうか 飛んでる っていうか。。響いてるっていうか。。
降りてくるっていうか。。
きっと恐らく その手の人が 言ってるのでしょう。。
優しく温かい 響きでした。。
紀皇女さんかな~。。
と 思いました。
私の読みが当たっていたので そのお礼かな とも思いました。。
そっか。。
当たっていたんだ。。
感謝してくれてるんだ。。
生涯が謎とされている方は 多くが 後世の人から 
その生涯を酷いものとして推測されがちですが
時として 権力によって 罪もないのに足跡を消される場合も あると思うのです
まじめにきちんと生きたのに 罪をかぶせられて 生きた証を消されてしまった方
たくさんいると思います
私はどうしても 紀皇女さんが 何か不貞を働いたとは
万葉集を詠んでみても 思えませんでした。
残された歌は 確かに 激しい内容のものでしたが
あの歌は 供養が必要なほどの 感情が籠もっているということで
万葉集に遺された特別な歌だと 私は思うのです
他にたくさんの 季節の歌とか 詠まれていると思います
実際は 母方の祖父の島流しを憂いながら 一生を静かに過ごした優しい方なのでは?
と 思えてならないのです。。
もしかして 多少のサイキック能力があったために
持統天皇に警戒されたのかも知れませんね。
いつも何かを 勝手に推測した後って
こういう ことが 起こります
これで 終わったんだな~って  
もしかして 呼ばれて考察させられたのかな~とも思ったりします
うげ。。怖い。。
今 一瞬 静かに停電して また復旧しました。。
ネットの接続も切れたのに このまま 画面が出てます。。
きっと これは 単に近くを工事してるからですよね。。
あー どきどきした。。

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考察 巻第3ー挽歌420~425 石田王 丹生王 磯城皇子 紀皇女 その弐

12月2日 
紀皇女(きのこうじょ)は 天武天皇の娘です。
母は 蘇我赤兄の娘 太蕤娘(おおぬのいらつめ)です
同母兄弟に 穂積皇子 田形皇女 がいます。
磯城皇子も 天武天皇の皇子です
母は 宍戸臣大麻呂(ししひとのおみおおまろ)の娘 かじ姫娘 です
同母兄弟に 忍壁皇子(おさかべのみこ) 泊瀬部皇女(はつせべのこうじょ)
託基皇女(たきのこうじょ)がいます。
天武天皇の妻は 他に 持統天皇、持統天皇の姉、天智の娘(大江皇女)、額田王、
藤原鎌足系の氷上娘(ひかみのいらつめ)五百重娘(いおえのいらつめ)
と そうそうたる人たちです。
紀皇女の母は 蘇我赤兄の娘ですが
赤兄は 壬申の乱で 敗れた大友皇子派だったため
息子とともに流刑となり 遠くの土地に流されています。
ので 紀皇女の母は 父方の後ろ盾のない姫なのです。
まあ 母方の援助を受けていたのでしょうが
はっきり言って 天武朝においては 他の妃の子どもたちと比べて
あまり重要視されない家族ではなかったのではないかと思いました。
磯城皇子のところも 他に引け目を感じていたような。。
長男の忍壁皇子 以外の皇子・皇女は
あまり重要視されてなかったのでは。。と私は勝手に思います。
それは 天武の正妻が あの 持統天皇だからです。
そして 天武天皇亡き後 実権を握ったのは 
その持統天皇と 藤原不比等です。
他の妻たちは はっきり言って 
その存在が かすんでしまっていたのではないかという気がします。。
万葉集は 特に亡くなったときの事情が多々ありそうな方の作品を載せています。
多分 この石田王も 何か事情がおありになった方なのでしょう。。
大津皇子のように 死に追いやられたのではないにしても
ちょっといわくがありそうです。
なぜかというと、丹生王の詠んでる歌が やや長いのです。。
例としては 
皇太子のまま亡くなった草壁皇子のために 
柿本人麻呂が詠んでる長文の歌があります
他には 明日香皇女、 忍壁皇子 高市皇子が亡くなったとき
柿本人麻呂が詠んだ長文があります
弓削皇子が亡くなったときの 置始東人(おきそめのあづまひと)
(高級文官らしい)
の歌で やや長い歌があります
つまり 天皇や皇子クラスの方が 
死のときに詠まれる歌を 
王クラスの石田王も 詠んでもらって、
それが どういうわけか万葉集に載ってるということです。
(普通でしたら 万葉集には載らないと思うのです)
そして それを詠んでいる謎の人 。。丹生王。。
皇族の死のときに 歌を詠む方は
きっと そういう方面に優れた方なのでしょう。
額田王や 柿本人麻呂 と並んでもいいほどの歌詠み。。
丹生王は 妻だったという説もありますが
妻というのは 普通の五・七・五・七・七を 詠むのではないかと
私は勝手に思うのですよ。。
歌 特に長い歌は 一種の祝詞ですから 
普通の人である妻には無理なのではないかと
思う次第であります。
昔は言霊といって 言葉には魂があると思われていました。
皇族の方を天に送るには やはりそれなりのサイキック能力のある方が 
弔文を詠まないと いけないと思うのです。。
で その歌ですが
ちょっと激しいのです
悔しきこと という表現が 2回も出てくるのです
普通ですと 
生前はこんなに素晴らしいお方だった
なのに天へ逝ってしまう。。 ああ どうして。。
みたいな 美辞麗句を並べた歌が多いのですが。。
この丹生王の歌は やや異質です。
まあ 妻が感情的に作った歌と言えばそれまでですが。。
でも そういう感情的な歌をどうしてまた 万葉集に
載せたかが 私には 不思議なのです
そこで 私は考えました。
この石田王=磯城皇子
   丹生王=紀皇女
では ないかと。。
万葉集得意(勝手に)の 名前すり替えです。。
石田は 磯の石。 田は 中に 土があるので 城の土
紀皇女の 丹生は。。
以前 弓削皇子の兄 長皇子が詠んだ歌に
丹生の河 瀬は・・・(2-130)
っていうのがありまして  これはどうやら
丹生川みたいに激しい流れの恋に苦しんでる弟 弓削皇子に贈った歌のようですが
(弓削皇子から 紀皇女への激しい恋の歌は 4首
万葉集に載っています)
この歌からとって
丹生=紀皇女になったのではないかと 私は勝手に思います。。
そして 万葉集の作者は 意図的に
後から出てくる 丹生女王と この丹生王を
読者が混同してくれたらいいな、と
狙ったような気がします。。
と こんなことを 考えていたら
紀皇女の生涯が 浮かんできました。
母方のおじいちゃん蘇我赤兄は 流罪で遠い島にいる。
もしかしてもう 死んでしまったかも。
お父さんと争って 敗れた大友皇子の臣 だったから
母は口には出さないけど きっと心を痛めてる
そういう中で 育ってきて
父も亡くなった
権力は 持統天皇と 藤原家に握られた。
年頃になると 弓削皇子様に思いをよせられる。
が 楽しい時もつかの間。
弓削様は 先に死んでしまう。
そして 新しい恋。 上からの命令だったけど
磯城皇子と 結婚。
磯城皇子は 自分と同じく影の薄い家の皇子だった。
長男の忍壁皇子の存在に隠れている次男。
お互いを慰めあい おだやかに日々を過ごした。
でも 楽しい時もまた終わってしまう。
磯城様も先に亡くなってしまった。
悲しみにひたっていたら さらに追い討ち。
磯城様のご遺体を 天皇の命令で高松塚に移すことになったという。
高松塚は 亡き皇太子 草壁皇子のために作っていた陵のはず
草壁皇子は 他の場所に葬られることになったという
思わず 大津皇子のことが頭に浮かんだ
持統天皇によって追い詰められ 死を賜わった大津皇子
ご遺体は 西の 遠い二上山の頂上に移された
姉の大来皇女様は 歌を詠んで嘆いてらした
伊勢斎宮をなさっていた大来様が嘆くということは
大津様はきっと 何か 恐ろしい呪詛に使われるということなのだろう
私の夫 磯城様も 
呪詛に使われてしまうに違いない
悔しきこと
持統天皇と 藤原不比等が憎い
兄 穂積が 高市様と結婚なさっていた但馬皇女と逢い
志賀の山寺に追いやられてから
私も 穂積の妹として 変な目で見られるようになってきた。
おつきあいした方 2人が先に死んだという事も関係するのだろう
好奇の目で見られるようになってしまった
うとましかった
弓削皇子様 磯城皇子様のご冥福を祈りながら
ひっそり過ごす日々だったのに
宮で すれ違っただけの まだ少年の高安王と 
あろうことか 噂がたち 責められた
わかっている 
きっと 藤原不比等の企みだ
藤原出身の娘を次の天皇の妻にしたいために
他の皇女の格を落としまくっているのだろう
お叱りを受けている最中に 密告した者が
馬に乗って えらそうに来たので 思わず
おまえのせいだろう!
心の中で叫んだ
後日 歌にしたら あっという間に
藤原家を憎むものたちの間で 密かに広まってしまったという
侍女が教えてくれた。
高安王も 遠い地へ とばされてしまったという
ほとぼりがさめれば 戻れるとは思うけど
お気の毒な事である
私の人生
きっと 後世の人からは 恋多き愚かな女性と 言われるのだろう
磯城様のご友人 山前王様 だけが真実をわかってくれるのが救いだ。
私の亡き後は 夫 磯城様に代って 歌を詠んでいただけるように
お願いした。
こんな自分だけど 磯城様から受けた たくさんの愛情を忘れないでいたい
死後も 磯城様の呪詛が解ける様 願い続け
磯城様が 目覚める時まで そばにいたいと思う

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考察 巻第3ー挽歌420~425 石田王 丹生王 磯城皇子 紀皇女

11月25日

万葉集には 一体誰なのかわからない方が よく登場します。
日本書紀にもきちんと載っていない方です。
有名な 額田王(ぬかたのおおきみ)は書紀にのっています。
万葉集で彼女は明らかに歌を沢山詠んでいるので
歌人ということで通っています。
玲子さんは 彼女の事を サイキッカーと 見ています。
王 というのは 祖父母か前の先祖が皇族とか
昔からの名だたる土地の支配者の子孫とか そういう身分の方の名前です
巻第3 挽歌 に登場する 石田王と丹生王は
伝不詳 という方々です。
王 という名前と時代から
恐らく 以前の天皇の外孫に当たる方でしょうか。。
謎です。。
なぜ この2人に辿り着いたかというと
天武天皇皇女である 紀皇女を調べていたからです。
紀皇女は 亡くなった時のことが日本書紀に記載されてない皇女です。
里中満智子氏の 漫画 天上の虹 で
あまりにも有名な役どころの方です。
色っぽくて美人で 軽皇子(少年の頃の文武天皇)の年上妻になります。 
そして 弓削皇子の愛人
そして 壮絶な死。。
と かなり ハードに描かれています。。
なぜ 文武天皇の妻かというと
梅原氏が 著書の中で お書きになったことだそうです。。
読んでなくてごめんなさい。
確かに不思議なのですが 文武天皇には皇室出身の妻がいないのです
天皇になれずに若くして亡くなった草壁皇子にはきちんと
皇室出身の妻がいたのに。。
持統天皇に死においやられた 従兄弟の大津皇子も
ちゃんと 皇室出身の妻がいたのにです。。
そう この当時 天智と天武の子ども達は
沢山いて 結構その中で 結婚をしているのです。。
なのに 文武天皇には いないのです。。
日本書紀に記載されていないのです。。
臣下 藤原不比等の娘 宮子 が妻として有名ですが
(彼女は 聖武を出産後 欝?になり 引きこもりになります)
普通 いて当然の 天智か天武の血をひく皇女を妻にしていないようなのです。。
それで 亡くなった事が記載されていない紀皇女が
実は 文武の妻であったのではないか?
そして 不倫か何かがあって
または 藤原氏の陰謀があって
正妻の座を引きずり下ろされたのではないか
と  考えられたわけです。
確かに 藤原氏にしてみたら 皇族の妃は いないにこしたことがないです。
宮子に子どもが生まれて うまくその子が天皇になれば
自分が外祖父になれるわけですから。
実際 宮子は 聖武天皇を産みます。
聖武天皇も 皇族出身の妻がいません。
まあ それは 聖武の妻 光明子の立后に反対した長屋王を
藤原4兄弟が 死においやったという事も
関係してるとは思います。 
とにかくその謎の人 紀皇女ですが。。
この石田王に関しての歌は 外せない歌なのです。。
420で 石田王は すでに亡くなっています。男性らしいです。
で その死を 丹生王が嘆いて ちょっと長い歌を詠んでいます
少し後に万葉集に登場する 丹生女王と 同一人物?と 言われています。。
つまり 女性ですね。。石田王の妻?とも言われています。。
421と422は 反歌です。
423は 石田王の死を 山前王が嘆いて歌を詠んでいます
この方は 忍壁皇子の息子さんです。
この歌は もしかして柿本人麻呂 が 代わりに詠んだかもと言われてます。
424と425は反歌です。
そしてこの反歌の詞書に この歌は 紀皇女が亡くなった後、
山前王が 石田王に代わって作った と書かれています。
ですので 謎の紀皇女は 石田王の妻であったのではないかといわれています。
さらに 紀皇女の謎を深める歌の一つに
巻12-3098 の歌があります。
高安王と会ったのがばれて 責められているときの歌で
おまえ(多分 家来?)のせいで怒られているのに 馬に乗って偉そうに登場するな
というような すごい激しい歌なのです。
(高安王とは かなり年下になるそうなので これは紀皇女ではなく
託基たきの皇女の間違いか、とも言われています)
そして 弓削皇子の 紀皇女を思って作った歌4首があり
紀皇女の 誰かを思って作った歌が一首 あります
かなり想像をかきたてられる生涯なのです。
そして 磯城皇子(しきのみこ)ですが
この方も 亡くなった年が日本書紀に記載されていません
玲子さんは 高松塚古墳を霊視したとき
1人の壮年の男性と もう1人妻か家族か若い身分の高そうな女性と
しき の言葉が浮かぶとおっしゃっていたので
むむむ。。と 私は一気に 魂を刺激されてしまいました!
しかも 高松塚は 呪詛のために持統天皇が作った古墳ということで
きっと被葬者は 磯城皇子だ~と 私は勝手に決めてみました
もう1人 天智天皇の息子で 志貴皇子(しきのみこ)がいますが 
この方は 持統天皇の死後に亡くなっているので 違いますね。
万葉集に登場する 謎の王 石田王と 丹生王
日本書紀に 亡くなった年が書かれていない 磯城皇子と 紀皇女。。
私は 4者の関係を 勝手に妄想してしまいました。。
持統天皇が怖いですが。。
次回 また 考察してみたいと思います

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万葉集 1-28 雑歌

11月11日
  天皇御製歌
 
春過而 夏来良之 白妙能 衣乾有 天之香来山
  天皇(女帝 持統天皇)の御製歌(おほみうた)
春過ぎて 夏来(きた)るらし 白栲(しろたへ)の 衣乾(ほ)したり 天(あま)の香具山(かぐやま)
中西進先生訳
春も終わり夏がやってきたらしい。純白の衣を乾している。天の香具山よ。
ゲゲ訳
東を通る龍道の力は終わりです。
今度 龍道は南を通って私の直系のみ繁栄するのです。
天の香具山にかけられている呪詛はなくなりました。
喪服をかぶって 休んでいなさい。
この歌は 必ず教科書にも 載っている ちょー有名な持統天皇の歌です。
わかりやすく 現代にも通じるものがあるので
よく暗記させられる歌 ナンバー1でもあるでしょう。
私も暗記しました 懐かしい歌です。
いつもでしたら 万葉集は じっくり漢字を調べていくのですが
どうも。。持統天皇の歌は。。
それが通用しないというか。。
呪詛っぽいのですよね。。(~_~;)
直感勝負で解きました。。
まず この美しい景色を歌った歌ですが
よくよく考えてみると ものすごい不思議な歌なのです。
今では 当たり前そうな景色ですが
当時の時代で考えると とんでもないらしいのです。
さすが持統天皇のおつくりになった歌。。。怖いデス。
○天之香具山ですが この山は藤原京の 東にそびえる聖山です。
アマテラスからの直系の山です。
天之香久山命 は 天孫降臨のニニギのミコの子ども説、兄説もあります。 
新春に登って 天皇が国見をする儀式も古代にはあったようです。
で、その山に 白い衣が乾してあると この歌は歌っていますが
実は 古代は 山というのは 聖なる禁足地で
誰も足を踏み入れてはいけないのだそうです。
特にこの香具山は 霊山です。
だから そこに 衣が乾してあるなんていうのは
とんでもない ありえない景色なのだそうです。
○その 白い衣 白妙の衣ですが
喪服だそうです
つまり この歌の最後の部分は
聖なる霊山に 喪服が乾してあるよ、と歌った ちょっと怖い情景なのです。
勿論 実際には乾せませんから 想像というか 呪詛でしょう。。
○龍道ですが
これは霊能者玲子さんと 闇検のスタッフが名づけた名前みたいで
古代の権力者が 自分らの子孫が栄えるために
いろいろ パワーのある土地に古墳を配置したり 
呪詛を行ったりして 作った視えない道です。
この道の力を利用して 自分たちが子々孫々栄えるようにと
願いをこめたのです。
○春過ぎて夏来るらし
春は 旧暦1、2、3月 今の2、3、4月ごろです。
方位は東、色は青、
五行では木 乾(コン)、陽(太陽や天)をあらわします。
夏は 旧暦4、5、6月です。今の5、6、7月頃です。
方位は南、色は赤
五行では火 離(イ) をあらわします。
春が過ぎて夏がやってきたらしい、というのは
春の時代が終わって、夏の時代がきた
東を通っていた道は終わったのよ。これからは 南を通る道よ。
ということかな~と思った次第です。
○藤原京
持統3年(689) 持統の息子 草壁皇子 皇太子のまま亡くなります。 
持統8年(694) 藤原京に遷都します。
文武1年(697) 草壁の子 軽皇子 皇太子となり 即位します(文武天皇)
この歌は 万葉集の順番でいくと 軽皇子が即位する寸前に
持統が天皇の時代に つくった歌のようです。
龍道と 新帝即位前。。
即位前 無念にも亡くなった息子 草壁のことを思い
自分の直系が 未来永劫 王座の地位にあるためには
新しい より強固な呪詛をかけて 龍道を作らないといけない!
と持統は思ったに違いありません。。
呪詛は その道のエキスパート 中臣不比等 にまかせたと推側しました
で 不比等ですが 新しい京と 同じ名字を頂きます(藤原不比等)
私が思うに、藤原京と同じ名字を与えるから
この京を あなたの一族の力で守りきってちょうだいよ!と
いうことだったのではないでしょうか~。
つまりは 今までの蘇我がかけた呪詛は もう終わり。
(蘇我は かなりの呪力を持つ一族だったらしいです。。
だから あれだけの権力を得たようです。)
次は 藤原のかける呪詛で 私の新しい直系の者の時代よー
天の香具山は 喪服を着て 休んでいなさい
というニュアンスだと思います。
玲子さんの霊視によると 蘇我のかけた龍道と 藤原のかけた龍道があるようです。
藤原の龍道は 淡山神社 高松塚古墳 や 大津皇子の眠るに二上山 にかかっているようです。
そして 蘇我馬子の墓(石舞台古墳)をあばいたのも
どうやら 藤原系 らしいです。。
墓を暴くことによって そこの力をなくそうとする目的らしいです。
話が古代の呪詛合戦に及びました。
そして とどめは 言霊の力。歌を詠むことです。
そして この歌が詠まれてスイッチが入り 今までの蘇我の龍道が違う方向へと
新しい藤原の龍道へ 移動したのではないでしょうか。。
この歌が 皆に口伝で愛されて 口承されていけばいくほど
藤原のかけた龍道の呪詛が 益々力を得ていったのだと思うと。。
ほんと おそろしいです。。
でも 結局 孝謙天皇の時 この持統の直系は終わりになり
また 系統は 天智系に戻ります。。
天武の系列は終わったのです。。
(持統も 父が天智なので 天智系なのですが。。
女性があとを継ぐっていうのは 直系とはいわないのかな。。)
なんででしょう。。
呪詛の力が終わったのでしょうかね。。
また 調べてみる価値があるようです。
参考文献 
左 ブックリスト 一連の本
古代史の秘密を握る人たち 関 裕二 PHP文庫 2001年6月15日第一版第一刷
血塗られた飛鳥時代の謎 神 一行(編) KKベストセラーズ 1991年1月10日 初版

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葬式まんじゅう

10月22日

義母との会話で 温泉まんじゅうの話がでました。
私が 好きなおまんじゅうで
1位 温泉まんじゅう
2位 葬式まんじゅう
と発表したら 義母が
葬式?まんじゅう?
葬式に おまんじゅうを出すの?
と聞いてきました。
よく聞いたら 新潟には 
葬式におまんじゅうを出す習慣はないそうです
72歳の義母が言うから もうずーっと
その習慣はないのですね。。
え~~~!?って びっくりしました。
私がいつも食べてた あの白くて茶色い字?模様?入りの
おまんじゅうって 全国区 ではないんだ~と
目からうろこでした。。
霊能者の 故 宜保さんも著書の中で
子どもの頃 葬式饅頭をもらえるのが嬉しかった
ってあったから 彼女は神奈川でしたか?
そちらの地域は 昔からあったってことですよね。。
私の父の実家のところ 本庄もあったし
母の実家 児玉もあったし。。
甘いものが大好きな私は
外が白くて 中は アンコたっぷりの
やや大きめの
葬式まんじゅうが大好きでした。。
あれ。。そういえば 栃木も
葬式饅頭 頂いたことがにゃい。。
私が小さい頃のお葬式って 亡くなるのは年寄りだけなので
あまり 悲しくもなく。。
おまんじゅうが出るから
子供心に ちょっと嬉しかったです。。
葬式と その後のふるまいが終わって
は~ やれやれ。。無事に送れた。。
って みんなでおまんじゅうを食べてお茶を飲み
疲れをいたわったものでした
私等 37年生まれは 土饅頭のお墓を見た最後の世代かな。。
いや 39年生まれの弟も 見た気がするけど。。記憶にないか。。
でも 最近は 本庄のほうも
葬式饅頭 一箱 どーんとは 出ないようになった気がします。。
せいぜい 一つ一つを 親しい人に配る程度かな。。

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10月6日
読売新聞に連載中の小説
美女いくさ 諸田 玲子氏
読んでいて なるほどな~って思います
秀吉の時代 小督(おごう)が主人公です
信長の妹 お市の方の娘 三姉妹 茶々の妹です。
秀吉は 案外おおらかで優しい人だったみたいに
思われていて
茶々の子ども 秀吉の晩年に生まれた息子は
実は 茶々と 不倫相手の石田三成の子ではないか?
なんて 噂があります。。
でも この小説を読んで 
うーん それはありえないな~って
私も 思いなおしました。。
秀吉は 朝鮮へ出兵もしましたし
自分の子を世継ぎにしたくて 
今まで関白職にあった甥を 
妻や子らと全員処刑した残虐な面もある人です。。
嫁に行ったばかりの 伊達政宗の従妹も
刑場の露と消えたのは 有名な話です。。
もし 茶々と三成の事が 少しでも怪しいなんて
知ったなら たちまち2人を 斬ってしまうのは
目に見えてます。
秀吉は 茶々に夢中だったという説も
ありますが
茶々も 別に貴族の娘っていうわけでもないし
単に 信長の妹の娘 というだけです。
何か 不手際があれば それはもう
秀吉の一言で どうにでもなるような存在だったでしょう。。 
多分 茶々のほうが必死に 秀吉に
すがりついていたのではないでしょうかね
そうやって生き延びたのが
戦国時代の女性だと思います。。
豊臣政権も 晩年に実子が生まれたのが
悲劇の始まりだった気がしてなりません。。
無用な殺生をすると
祟りが怖いですよね。。
玲子さんのつぶやきによると
織田が滅びたのも
家康の正室と嫡男を殺させたからとか。。
なら 豊臣が滅びたのも
やはり 罪もない人を殺したからですね。。
茶々(淀殿)も必死に 豊臣家を守ろうとしましたが
家康と あとは視えない怨霊に負けてしまったのですね。。

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驚き

10月1日
大河を見て 長野 善光寺に
謙信と信玄の 位牌が 並んで祀られてると知って
びっくりしました。
そういえば 去年そんな夢を見て
私 分析してたっけー
と 思わず興奮してしまいました。
9月に 夢を分析してました。
ガックンが夢にでてきて
信玄が建てた寺がどうとか出てきたんですよね。
私は 当時 ガクトさんが謙信をやるって知っていたので
あれは やはり 謙信と信玄の関係を示唆していたのかあ~。
善光寺へ行きなさいということなのでしょうか~。
もともと興味はありました。
1度善光寺へお参りに行きましたが
お参りしてそばを食べてジュースを飲んで 
終わってしまいました。。
父の実家の近くの諏訪神社の謎もわかるのかも。。
今晩見る夢が ヒントか~。
最近 日光東照宮へ行きたいな~とも思っていたし。。
今の私が 去年のこの夢を気にした、という時期も
絶対何か 関係あるはずです~。
寝ている間に見た夢って
しばらく後になってから
現実的に何かが起こって はたっと内容が一致することがあります
実はこのことを 夢は教えていてくれたんだー!
って いうのが たまーにあるのです!!
だから 夢は面白いです~。
地震お見舞い申し上げます。
沢○○りかさん どうしたんだろう。。
ものすっごく 感じ悪いわ~。あれはマイナスだわね~。(おばさん風)

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謙信さんのいた頃

9月19日
NHKの大河ドラマを見てると あの頃の土地を巡る相関図が
とてもよくわかります。
なるほどにゃ~と 敵・味方の関係が
すんなり わかります~。
やはり 人間が演じて下さると 生き生きしてくるので
歴史の流れがよく理解できて 助かります。
上州は ほんとに 沢山の武将が
土地を巡る争いをして
ほんとに人間関係が複雑ですね。
関東管領の上杉家、武田、北条と
色んな人たちが 群馬の土地が欲しくて
あちこちから 手を出してきます。
以前は群馬をドライブして いろんな城跡を見てきました。
ここで いろんなドラマがあったんだ~と
とても感慨深いです。。
長野もすごかったですね。
武田、今川、小笠原、村上、北条、
きっと 場所的に
押えておかなければいけないところだったのでしょうね。
そこで 私が思うのが 私の本庄の渡邉家のご先祖様は
その時 どうしていたのだろう~と いうコトです。
本庄は武州で 上州と小田原の間にある感じの土地です。
最終的には北条側に ついたみたいですね。
後に 埼玉の城はことごとく 秀吉に滅ぼされてます。 
児玉党 という 平安時代からの 勇猛な軍団があって
一目おかれていました。
武蔵7党と して 有名な7氏のうちの 一つです。
本庄は 本庄氏という 児玉党からの分かれた一族みたいです。
ガクト謙信さんの 優秀な御家来衆に 本庄氏が 居ますが
もともとは やはり 埼玉の本庄氏の出身みたいです。
悲しいかな。。
越後の分家のほうが 有名になっちゃいました。。^_^;
上杉家と トラブった 本庄の騒動がありました。
いかっこ(五十子騒動)1477年
うちの実家は その場所のすぐ近くです。
うちのご先祖様は 上州の新田の家来ですから
本庄氏とはつながりはありませんが
本庄城の目と鼻の先に 住んでいたので
まあ 仲間っていうか 少なくても敵ではなかったと思いますが
実際はどうなんでしょう。。。
新田義貞公 亡き後は 新田一族は
上杉、武田、北条 と対立してたそうです。
では うちのご先祖様も ガックンたちを相手に
戦っていたのでしょうか。。
なんか 悲しい。。
現在発展している分家(私の実家の分家)は
戦国時代に分かれたそうなので、きっとこの頃ですね。
渡邉は 勇猛な武家の名字。
きっと 戦いに明け暮れていたのかもと想像すると
大変だったろうな~と考え込んでしまいます。。
私が 群馬や埼玉北部の人たちの気質を見て思う事があります。。
あくまでも 私個人の感想ですが。。
誰が上でも 関係ない。
自分達が強くて楽しければそれでいい。
と言った 気の強さがあるような気がします。。
確かに 歴史的に見ても
常にあちこちの武将からねらわれてる土地でした。
自分達のお殿様が 新興の武家に簡単に殺られるなんて事は
よくあったでしょう。
そんな土地柄からか 多分
 
自分達がしっかりして 上には 期待をしない。
って いう感じになったんじゃないのかな~と思います。
大河ドラマは 最近人間関係が複雑になってきたので
次女などは ちょっと ついていくのが大変そうです。
でも 私は どろどろな人間模様が 大好きなので
わくわくして 見てます。
でも 一番の目的はガックンの麗しい姿です!
この間は 信玄のお母様がお亡くなりになりました。。
また1人 第1回から出演の方が世を去りました。。"^_^"

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万葉集 巻二ー156、157、158

9月16日
 十市皇女薨時高市皇子尊御作歌三首
三諸之 神之神須疑 己目耳矣 得見乍共    不寝夜叙多
              己具耳矣 自得見藍乍共  
神山之 山邊真蘇木綿 短木綿 如此耳故二 長等思伎
山振之 立儀足 山清水 酌二雖行 道之白鳴
〔紀曰、七年戊寅夏四月丁亥朔発巳、十市皇女卒然病發薨於宮中
十市皇女(とをちのひめみこ)の薨(かむあが)りましし時に、高市皇子尊(たけちのみこのみこと)の作りませる御歌三首
156 三諸の 神の神杉 夢のみに 見えつつ共に 寝(い)ねぬ夜ぞ多き 
157 神山の 山辺真麻木綿 短木綿 かくのみ故に 長くと思いき
    
158 山振の 立ち儀ひたる 山清水 酌みに行かめど 道の知らなく
〔紀に曰はく「七年戊寅(ぼいん)の夏四月丁亥(ていがい)の朔(つきたち)の癸巳(さし)、十市皇女卒然(にはか)に病発(おこ)りて宮の中に薧(かむあが)りましき」といへり〕
      
中西 進先生訳
156 三輪山の神々しい神杉のようなあなた。夢ばかりに見えながら共寝せぬ夜の長かったことよ。
157 三輪山の山辺にまつる麻幣(しで)、その短い幣のようだった逢瀬。そうだったばかりに末永くと思ったことだ。
158 山吹の花が美しく飾っている山の泉を酌みに行って蘇えらせたいと思うのだが、道を知らぬことよ。
〔日本書記にいうことには「天武七年四月七日に十市皇女は突然発病して宮中で没した」という〕
いつも通りのゲゲ訳は 途中です。
天からまだ ヒントが降りてきません"^_^"
「万葉言霊歌解析」(四季が岳太郎氏) を参考にして 隠された言葉探しをしてみました。
実       実     杉      実   三重        稲      大木
みもろの かみのかむすぎ いめのみに みえつつともに いねぬよぞおおき
(三輪山) 神  神   夢     見    共   往  世  生 来 
   山   山 木  踏み 鹿 木   実 幹        木
かむやまの やまへまそゆふ みじかゆふ かくのみからに ながくとおもひき
    魔  魔  魔     死      身 殻    苦  喪
 山吹     装ひ   山  水      亀       鳴く
やまぶきの たちよそひたる やましみず くみにいかめど みちのしらなく
         千代 添ひ     死不見      目  身   死 無
悲しみの言葉探し
神様にお願いして いっしょに暮らせる日を夢見た。
あなたが死んで 私は 苦しい。からっぽだ。
これからもずっとそばにいる。死なんて関係無い。
もうひとつの言葉探し
十市皇女と 高市皇子が 山で遊んだ思い出でしょうか。
巻1-32の歌の作者 吹芡刀自 が十市皇女ではないかと以前推測しました。
芡は睡蓮だそうです。山振はもしかしたら 山吹ではなく 山の沼に咲いてた睡蓮という意味かも知れません。
最初の歌で、み が 三重 とあります。
真ん中の歌の かむやまを かみやまと 読むと
どの歌にも み が 三 あることになります。
妻でもない女性に対して 3つの死を悲しむ歌。
高市皇子と十市皇女はひそかに愛し合ってたいたといわれる所以です。
でも 結婚は許されなかったようです。
十市は大友皇子に嫁ぎましたが 壬申の乱で大友は死に、
十市は 父 大海人のもとに戻り、肩身の狭い思いで生きます。
伊勢神宮に入る事を 父から言われました。が 突然亡くなります。
十市は自殺と言われています。伊勢神宮に入る前の潔斎所でらしいです。
愛する人が突然、死を選んだという 高市の無念の気持ちが
絶対この三首にこめられてると 勝手に決めて 
今 ゲゲ訳を行っています。
沓冠読みで 三首を見ると
こうなりました。
みの かぎ いに みに いき  身、退、限いに 身、逃、逝き
かの やふ みふ かに なき  科、退、止、踏み、伏、科、逃、亡き
やの たる やず くど みく    止、退、足る、止、直ぐと 身 来
十市が死んだ。逝ってしまった。
十市は死につかまってしまった。何の罪から逃れようとしたのか。
まだ退かないで。直ぐこちらに来ておくれ。

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万葉集 巻2-148 挽歌

9月9日
  一書曰、近江天皇聖躰不豫御病急時、大后奉獻御歌一首
青旗乃 木旗能上乎 賀欲布跡羽 目二者雖視 直二不相香裳
一書に曰はく、近江天皇の聖躰不予御病急(みやまひには)かなりし時に、大后の奉献(たてまつ)れる御歌一首
青旗の 木旗の上を かよふとは 目には見れども 直(ただ)に逢はぬかも
天智天皇の病気の重いとき、倭大后の奉る御歌
浜西進先生訳
   青々と樹木の茂る木幡山のあたりを 魂が行き来なさると、
   目にははっきり見えるのだけれども 現し身にはお逢いできないことよ。
挽歌は 人の死を悲しむ歌です。
第二巻の挽歌は 有馬皇子から始まって
天智天皇、十市皇女、天武天皇、大津皇子、と 
そうそうたるメンバーの死を悲しむ歌が並びます。
でも、この天智天皇の歌の場合は、少し変わっています。
147番と、上記の148番は
病気の天皇よ、どうぞ助かって、という歌です。
詞書が そのようになってます。
そして崩御されて
149~155番と 死を悲しむ歌が続きます
昔は 病気のときは離れていく魂を
歌の力によって肉体につなぎとめようとしたので
147と148は その平癒を祈る呪歌にあたります。
ところがこれに ちょっと待った!をかけたのが
逆説の日本史の 井沢元彦先生です。
日本書紀には 天智天皇は病気で亡くなったとありますが
他の本(扶桑略記)には 
実は 山科に行って山の中で行方不明になり
沓が残された。 そして そこを陵にした。
という事が 書かれています。
そして 井沢先生
万葉集のこの148番の歌を取り上げて
この歌の不自然さを 逆説の日本史②の中で
おっしゃっているわけです。
詞書では 天皇はベッドで闘病しているなのに
魂は 山科(木幡)をさまよっているのです
山科は 天智が行方不明になったと言われた場所。
しかも都の大津からは離れた 草深い田舎で
周りに 他の皇族のお墓も何もない
皇族と全く無関係の土地だったのだそうです。
万葉集は 死んだ皇族の真相を残しているのではないかと
言われてますが
この歌もやはりと 私も思います。
恐らく 真相を知っている 
あの言葉を自由に操る天才 額田王が 
大后に代わって作歌したのではないかと
私は勝手に推測してます
そういう目でこの歌を見ると やはりちょっと??
って 思えてなりません。
ゲゲ訳
 青々と木の茂る木幡はあなたのものだったのに、今はもう
 別の方の旗がなびく場所となってしまっている。
 あなたはきっと木幡山で殺されてご遺体は隠されてしまったのでしょう。
 あとには 沓だけがあったそうですね。殺されて羽だけが跡に残った鳥のように。
 あなたの魂は 私の能力で視えるのですけれども
 ご遺体も、着ていらした香る裳もどこにあるのか見えません。
青旗の木旗 
   青旗は 木幡、葛城、忍坂山にかかる枕ことば
   木幡であるべきなのに。旗を強調。   
   旗は 軍にとって大事なもの
   しかも葛城は 天智天皇の生前の名前。
   天智天皇のものであった場所(日本国土は天皇のもの) 
   別の天皇のものにとってかわられるというニュアンスを感じた。
旗、能、羽
   旗は 熊・虎を書いた赤い旗、という意味もあります
   能は 熊の意。
   羽は 鳥の羽の形。  
   日本書紀に書いてありますが
   大海人皇子(天武天皇)を吉野に追放したとき 
   「虎に翼をつけて野に放ったようなものだ」
   と評されたそうです。
   それを思い出しました。
賀欲布跡羽
   そもそも 病気で悲しいのに どうして
   お祝いのことばの 賀 をつかうの?と思いました。
   ばらばらにしてみました。
   加 + 貝 + 谷 + 欠 + 布 + 跡 + 羽 
   貝に力を加える 山あいの谷 甕が欠けて壊れる、人が口をあけている 麻布(死んだ後の着物)
   ちょっと 人が死んだイメージじゃ。。って 思いました。 
   跡と 羽で
   鳥が猫に食われて 羽と血だけが空しく残った感じの気もしました。
   かよふ っていうのは 魂が通う っていうことらしいですが
   浮かんだ光景は 
   殺されて 死体は 谷に埋められ 魂が空しく空を飛んでる様子です 
目二者雖視 直二不相香裳
   目、視、相はどれも 見るということですが 微妙に漢字をかえています。
   直の 目と+も 呪術的な印の+を加えた目の象形なのだそうです。
   この文の中に 目が4つもあるのですよ
   私は知っていると 歌の作者が告発してるような 気がしました。 
この歌は
中大兄皇子(天智天皇)は 病気ではない。
弟の大海人皇子に 突然 山科で殺された。
というのを 額田が 后の代わりに作った歌と
私は思います。

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古墳 悠久の時。。なんか大げさな。。

8月30日
有閑倶楽部 実写ドラマ化!
みろく君 に 赤西くん!!やりー!!
10月から 楽しみー!!
まだ 高校生役 いけますねー!
涼しくなって すっかり眠い毎日です
長女は クラブの合宿で一旦 アパートに戻り
2学期制の次女の中学校は 今日から
一学期の後半が始まりました(いまだに慣れません。。雰囲気出ないし~)
期末試験がんばれよ~。
この間の旅行のため 本庄の実家に帰る時と
宇都宮に戻るときに体験しました
群馬に 太田?かな 尾島かな
よく場所がわからなくてごめんなさい。
朝子塚古墳という名前の古墳が 道路脇にあります。
ちょうしづかこふん 前方後円墳 です。
実家に戻る時 その古墳の手前500メートルくらいから
私の前の乗用車が スピードを下げました
なんか ふらふらしてたので
何かを探しているんだな~と わかりました。
こういうとき 私は 何を探しているんだろう~と
面白がって ゆっくり後を いつもついていきます。
大抵は レストランを探しているんですよね。
で、朝子ちゃん古墳(勝手に命名)にさしかかりました
そこはちょうと信号があって左折できるのです
見たら そこに 多分ブラジル系の金髪美女さんが1人で立っていらして
(大泉町あたりは ブラジルからの方が沢山お仕事なさってます)
私の前の車を見つけて 運転手(男性)に手をふってました
その車も 彼女を見つけて 左折しました
にゃるほど~。
前の車は
デートの約束をしてた女性を探して 
ふらふらしてたんだ~。と納得!
時計を見たら 1時59分。
おー!では
2時に 古墳の前で待ち合わせねLOVE
って きっと約束したんでしょうなあ~。
次女が どっち?っていいました。。
あー。。。方 か 円 ってことね。
前方後円 だから。。
円だね!
言い直し。
2時に 古墳の後ろの円のところで待ってるわLOVE
。。。。
外国の方に そんな細かい円だの方だのが わかるのでしょうか。。
とにかく 
古墳の前で待ち合わせも
なんか青春っぽくていいよね、
夏だ~て感じ。。
と 3人で 言い合いました。
私的には 前の 方の部分 で待ち合わせがいいなあ~。。 
夏の古墳は とても涼しそうに感じます。。
空気が清浄っていうか 聖域っていうか~。
そして 本庄から宇都宮へ戻る帰り道
朝子ちゃん古墳のところの信号にさしかかりました
すると 信号は青なのに 車は渋滞して流れがとまりました
平日木曜日 夜8時 そんな混む時間??
古墳のところを見ました
古墳の反対に 佐川さん(多分)の 
大きな集荷センターがあるのですが
そこのところの渋滞だと わかりました。
後ろから見ていたら すごく
かっこよかったでした。
私の前 乗用車が何台かいて その前にはトラックが何台もいました。
いつも 夜はトラックさんが多いので気にもしてなかったのですが
(国道50号に近いので)
その トラックさんたち 全部が 全部
その集荷センターに入るトラックさんだったのです
すごかった~。
私の車線から 5台くらいかな もっとかな
次々左折して そのセンターに入っていくのですよ。
まっ暗い中 田んぼと畑の中に
ぽつんとその建物は建ってます
こうこうと明るくライトがともる集荷センターに
次々吸い込まれていく シルバーの大型トラックたち。。
うおー!
なんか かっけー!!
映画のワンシーンみたい~!
と こどもと興奮して その光景に見とれてました。
少し離れて見てたから なんか 迫力でした~。
対向車線に止まってたトラックも 結局全部が
そのセンターに入る トラックさんでした。
両車線 合計10台以上は 吸い込まれていったでしょうか~。
まあ 片道一車線道路なので
見事に 渋滞になってましたが。。。
車が進んで そのセンターの中を見てましたら
入った10台が縦に並んでるほかに 
もっと奥にも さらに何10台もトラックがいて
うわー!!
圧巻ーー!!
と 大興奮しました。
ほんと 夜のライトの中 とてもきれいでしたー!
今まではせいぜい多くて 3台位のトラックが 
そのセンターに入るのを見たことはあったのですが
今回は たまたまですかね!
こんな1度に ~~!
迫力でしたー!
そして 左側の明るい営業所に入るトラックを見ていたとき
右側の 朝子ちゃん古墳もふと見てみました。。
真っ暗ィ中 じーっと そこに佇んでいるのです。。
なんか 陰と陽。。 過去と現代。。 みたいな 
不思議な構図でしたね。。
こうやって 古墳は 長い年月
ただ 風雪に耐えて ひたすら黙って
人々の歴史を 見守ってきたんだな~
と ちょっとロマンに浸ってしまいました~。。
いつか登ろうと思って 早 20年。。
ちょっと左折して 車を止めればいいだけの話なのに~。。
今度こそ登りたいなあ~。
古墳の上って 注意して耳をすますと
とてもこの世のものとは思えない音楽が聞こえるっていう話を
聞いたことがあります~。

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光明子 正倉院宝物

7月25日
光明子は 藤原氏の娘で 聖武天皇の后です
聖武天皇の母の宮子の妹です
大宝元年(701)-天平宝子4年6月7日(760年 7月27日)
正倉院に 聖武天皇の七十七忌に
御遺愛のお品を寄贈した方としても知られています
聖武天皇については まだ考察中です
701年-756年5月2日
在位 724年2月4日(3月7日)-749年7月2日(8月23日)
私は よく言われている 生来の弱い天皇ではなく
何か強い意志を持って あちこち遷都をした人物と思います
そういう風に 意見を述べられている歴史愛好家の方も多く
最近よくその意見を見かけて、
私もそうかも~と 思うようになりました。
正倉院宝物展 見にいけなくて残念でした
とてもすばらしいそうですね。
逆説の日本史② 古代怨霊編 井沢元彦氏
で 聖武天皇と光明皇后と東大寺建立について
書かれてありまして 目からうろこでした
東大寺は 長屋王一族鎮魂のための施設と
説かれていたのです
東大寺は 743年に 聖武天皇が詔をお出しになられて
国家安泰と 国民の幸福のために 造られました
 
夫妻の息子 基王(某 という説もあるそうです。 幼くして亡くなったので名前がない)
が早世しまして
これで 持統天皇の血をひく天皇家には 藤原系男子は1人しか生まれずに
しかも生まれても若くして亡くなってしまうという 恐怖が
2人の間にあったことが想像されます
国分寺・国分尼寺を各地に造るのだけでは 満足できずに
大元となる 立派な大仏を作らなくては というとになったようです
ずばり 怨霊のたたりを恐れて です
長屋王は 実力がある王族でしたが
(高市皇子の息子)
藤原氏出身で皇族でない 光明子の立后に 皇族代表として反対します
で 
どうやら 基王が早世するように呪った 
という無実の罪を藤原氏によってきせられ
一家自殺に追い込まれてます
玲子さんの霊視では 殺されてる?とも とれるそうです。。
で 
長屋王のお骨を流した土佐では 怪異がおき
長屋王を死に追いやった 政府高官の藤原4兄弟は 天然痘で
わずか4ヶ月間の間に全員亡くなり。。
後に 長屋王は 死後に名誉を回復されたのです
(正史には あまりはっきりふれてません)
藤原氏は このほかにも 聖武天皇の子どもで
側室の広刀自が生んだ 安積(あさか)親王(男子)を16歳で
死においやった痕跡も
なんとなく見え隠れしてます
持統天皇の時代の 大津皇子 高市皇子の死も
どうやら 藤原氏のしわざかもしれませんし。。
藤原4兄弟の死のときは
穏健派の 1人だけは(名前あとで調べます すみません)
命が助かるだろうと みな思っていたそうです
ところが その方も亡くなってしまったので
みな これは 長屋王のたたりだ それほどまでに怒っているんだ
と 恐怖におののいたのだそうです。。 
そして 東大寺建立と なりました
ところが いつまでたっても 夫妻の間に
跡継ぎの男子は 生まれませんでした。。
私は 聖武天皇のほうは 娘もいるし
自分も天皇家の血をひいていますし ご先祖の守りもあるだろうと
まあ 悩みはしたでしょうが 。。
あまり深く思いつめたりはしなかったのでは?
と 思います
むしろ やはり 恐怖におののいていたのは
后の 光明子だったと思うのです。。
自分の立后に際して
長屋王一族が 殺され
安積親王も殺され
そのたたりで 兄4人が次々死に。。
もう それは ほんとに。。 
次は自分が死ぬ番?? たたりで殺される??
っていう ものすごい恐怖だったのではないかと想像してしまうのです。。 
それで あの 聖女伝説なるものを 作らせて
世間に流したのではと 私は想像します。。
(これは もしかして 兄達が流したものかも知れませんが。。)
本来 天皇の妻となるべき 皇族の血をひく女子は
何かシャーマン的な力があったと 思うのです
ですから 古来 天皇の妻には 皇族の力のある女性が必ずなる!と
決められていたのでは ないかな~と 考えてます
ところが 藤原氏出身で なんのシャーマン的力もない光明子は 
言葉の力で 自分には仏の功徳による力があると
民衆に見せかけたのではと 思います
貧しい病人の垢を摺ったり 膿を口で吸う とかいう伝説です
そして 聖武天皇没後の
東大寺正倉院への 聖武天皇ご遺愛の品寄贈。。
(756年 6月21日)
過去につくられたお寺ですが 
天武天皇と持統天皇の夫妻の寺 薬師寺。。
夫妻の寺 という 意識付けによって
持統天皇の生んだ子どもの系統の正当性を世間に伝えたという
考えがあります。。
それと 同じように
東大寺を 聖武天皇と光明皇后のつくった寺と いうことを
民衆に意識付けさけて
光明皇后の生んだ子どもの正当性を世間に認めさせる作戦だったのでは?
と 思います。。
(。。残念ながら 次の代で 王朝は 天智天皇系にうつってしまいますが。。)
あと 私が この間 ふと ひっかかったのが
正倉院におさめた 聖武天皇ご遺愛の品。。
あれって もしかして 長屋王 ご遺愛の品も含まれてるんじゃないか。。
と 考えたりしました。。
でも 一応 長屋王は 罪人扱いでしたから
死後 屋敷に残された 高級な品の数々は
燃やされてしまったのでしょうか。。
もしくは 国によって没収ということで
どこかに保管されるのでしょうか。。
とりあえず 死に穢されている品の数々ですから
天皇の近くにはいかなかったのかな~とも思いますし。。
うーん。。。
もしかして 光明子は 長屋王のたたりを恐れて
正倉院に 長屋愛用の品をおさめて
さらなる鎮魂につとめたのでは?と 
思ったりもしました。。
私はそして 光明子ですが
この上もない力強さも感じます。。
晩年の 藤原仲麻呂(恵美押勝)にも 毅然と抵抗してたのでは~と
井沢氏の説を読んで 思ったりもしました
後日 述べたいと思います。。
幼少の頃は 天皇の后候補として お金持ちの藤原家で
何不自由なく 本当にお嬢様として
大事にのんびり育てられたのだと思います。。
でも 天皇家に嫁いだ自分の姉が 気がおかしくなり 鬱?に。。。
姉の生んだ甥の天皇に嫁いだ後 
最初は 兄たちの言うままに 深く考えずに
妻という立場を利用して 藤原の家のために 
夫の天皇に いろんなおねだりをしてたのでは~と 思います。。
でも そのうち 
自分の兄たちの数々の政治的陰謀に驚き 
ショックを受け
自分に流れる血の恐ろしさに おののいて
そこから 本当の人間としての生きる力みたいなものがでてきたのでは。。
と思います。。
そして 夫亡き後は 私がしっかりして
娘をささえて 皇室を守っていかなくては
と 目覚めたのではないかな~と 考えます。。
去年 光明子について ブログで書きたいな~
と思っていた時 ひとつの歌と出会いました
聞いた途端 鳥肌がたちました
これは 私の意志による鳥肌では ありません
誰かの気持ちを代弁してるという 鳥肌なのです
絢香さんの I believe です
聞いたとき即に
これは 光明子の気持ちだ!
と 思いました
レミオロメンさんの 粉雪を 聞いたとき
これは 大伯皇女の気持ちだ!
と思ったのと同じです
仏にすがって 生きていくしかない!生きるんだ!
私の選んだ道は 間違っていない!
という 切なる気持ちを感じます
♪ I believe myself 信じることで
  全てが始まる気がするの
  I beleive myself  あたたかい光は
  まちがっちゃいない 歩いていこう  ♪
生年月日を調べていたら 光明子って
今の暦で7月27日に亡くなっているのですね
今日25日と近いし。。びっくりしてます。。
おー 
今日は 亡き母の誕生日~。

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法隆寺

6月24日
次女が修学旅行で行ったので
また マイブームで法隆寺が復活しました。
本人は よく覚えていないと言ってます。。
もったいないなあ。。。
梅原先生は 隠された十字架で
法隆寺は 聖徳太子と太子の子等の霊を静めるための寺と
意見を述べておられます
学会では 無視されてるようですが
私も うん、鎮魂の寺だ!と思います
井沢先生も 逆説の日本史② の中で
さらに 藤ノ木古墳にも触れて
あの古墳には 祟峻天皇と穴穂部皇子が葬られているのではないかと
推理されています
ほん怖の玲子さんと視っちゃんの霊視では
穴穂部皇子と宅部皇子 と 出てます
崇峻天皇は赤坂天王山古墳に埋葬されてるそうです
で、逆説の日本史にも載っていますが
法隆寺の若草伽藍から 藤ノ木古墳まで
高麗(こま)尺で 1800尺なのだそうです。
1800ぴったりなんて意図的~。
ですから 法隆寺は 太子一族の他に
藤ノ木古墳も 鎮魂なさっているらしいのです
法隆寺の釈迦三尊像の台座の内側に
文字が墨書されているそうです
相見丂陵面楽識心陵了時者
陵の面(おもて)に相見(あいまみえ)よ、識心陵了(しきしんりょうりょう)を楽う(ねがう)時は
意味 陵に葬られている死者のために、陵をお参りしなさい
ということらしいです
藤ノ木古墳完成直後の7世紀に書かれた文字だそうです
穴穂部皇子が 蘇我・物部の争いで殺された後
太子が怨霊鎮魂のために この斑鳩の地を本拠地に選んだ
のでは?という推理なさっています
うおー 法隆寺はすごい寺です。。。
隠された十字架 には
法隆寺のちょっと普通の寺と違う特色が
たくさん述べられています
読んでいて わくわくします
法隆寺の7不思議も書いてあります
1.伽藍に蜘蛛が巣をかけない。雀も伽藍の堂塔に糞をかけない
2.南大門の石段の下に鯛石とよばれる大きな石がある
3.五重塔の九輪に4本の大鎌がささっている
4.不思議な三つの伏蔵がある
5.因可池(よるかのいけ)の蛙には片目がない
6.夢殿の礼盤(坊さんが座る台)の裏が汗をかく
  毎年、2月11日に礼盤を堂外に出して日光に当てると自然と水気を帯びる
7.雨だれが穴をあけるべき地面に穴があかない。
そのほか 学術的・建築的面での7不思議は 石田茂作氏(法隆寺雑記帖)が考えているそうです
1.中門中央の柱
2.金堂・五重塔の裳階(もこし)
3.中門・講堂中軸線の喰い違い
4.五重塔の四天柱礎石の火葬骨
5.三伏蔵
6.五重塔心礎(しんそ)舎利器(しゃりき)に舎利無し
7.若草塔の心礎
本来の 生きてる人間が来世の幸せや
亡くなった肉親の来世の幸せを願うという 
普通の寺の役割とは 造りも 違っているのですね
どうぞ 頼むからよみがえらないで~
といった感がある寺です。。
主な方の亡くなった日
穴穂部皇子 587年6月7日
聖徳太子  621年2月5日 または 622年2月22日
山背大兄王 643年10月14日または 643年11月11日
私が修学旅行に行ったのは高2の秋
もみじがとてもきれいな秋の 本当にいい季節でした
で、奈良にも京都から足を伸ばしました。
朝一番で 法隆寺を観ようと 早くに電車に乗って
開門一番の見学になるようにしました
小雨が降ってましたが 法隆寺に着いたら止んで 
いい具合の曇りの天気でした。
憧れの法隆寺です
グループのみんなとわくわくしながら
砂利を踏みしめ 
感動しながら 歩きました。
でも わくわくして歩いている私達なのですが
なんだか テンションが下がる気分で一杯になってきたのです。。
あれは 不思議でした。。
落ち着かないというか。。
私達 ここにいていいの?っていうか。。
私だけでなく、友達もみなそんな落ち着かない感じでした
その前日は京都のお寺を回って
うわー!落ち着くねー!すてきだねー!
もみじがきれー!
と ほんとに楽しく 歴史に触れていたのです
それが。。法隆寺は。。どうして。。?
と 私は思いましたねえ。
違和感というか。。すっきりしない感じでした。。
そして 多分 金堂でしょうか
歩いて はいろっか。。ということで入ったのですが。。
中には いくつか お像があって 観させていただいたのです。。
普通なら
うわー すてきー 立派ー おちつくねー
ありがたいねー
と感想がもれるはずです。。
確かに とても立派なお像でした
古くて 重々しくて。。。尊厳のある 。。。
だけど その建物に入るにしても とても勇気がいったのです。。
えっ・・入っていいの?
みたいな。。
なんというか この空気を私等が侵していいの?という。。
私達が 入ると このお像に悪いよね。。お邪魔だよね。。と
何かに遠慮してしまうというような感じで。。
勿論朝一番だったので
観光客はとても少なかったです
雨上がりで ちょっともやのたちこめる
とても 趣のある良い感じでした
だからでしょうか 一種独特の荘厳な厳かな空気に
法隆寺は満ちていたのです。。
早く言えば 怖い。。というか。。。
お像というのも 本来ですと
その前に行って 拝んで敬虔さを感じたりするものだと思うのですが
なんだか その時感じたのは
何か このお像は役割を持っているというか。。
この建物に人間が入って観るべきお像ではないな、
という 感覚でした。。
私等の前に 観光客さんが何人かいて
建物に入ったのですが
やはり 皆さん 
なんか納得いかないっていうか
落ち着かないっていう感じで
急いで出て行ってしまいました
私等も 中にあまり長い間 いられなくて
足早に出てしまいました。。
なんなんだ!と その時感じた感覚が
この間 ふと 思い出されました。
そして なんというか あまりにも静かすぎるお寺。。
普通 お寺は静かですが さらになんというか
墓地のような。。まあ お寺は墓地ですが。。
やはり 何かを鎮めているという感じというか。。
押さえつけてるといった感じでしょうか。。
その後 東大寺へ行って
鹿と遊んで 楽しかったので
すっかり 法隆寺のことは忘れてしまいました
今 思い出して
そういえば 時期が11月でした
山背大兄が 一家で自害した 時期ですね
今、日にちをみてびっくりしました。。
七不思議も なんだか 雨に関することもあります
あーに 不思議話があるってことは
やはり その寺には近づくなということだと思います
で 雨が何かからんでいるのかなとも思いました
もしかして 雨上がりや 雨の時って
何か 呪詛が少し解ける時なのでしょうか。。
それを 朝一で私は少し その場にいた人たちも
感じたのでしょうか。。
あの怖かった感じは 今でも思い出すと
うーーん。。って思ってしまいます。。
玲子さんの霊視で
藤の木古墳の穴穂部皇子は 呪詛がかけられているそうです
で、その呪詛は破れないそうなのです
破れないので 誰がかけたかもわからないというコトですが。。
やはり あのお方しかいないのでは。。私は単純に思ってしまいます。。
玲子さんと視っちゃんが苦手な うかつに手をだせない聖徳太子さん。。
ではないかなあと勝手に思います。。
こういう歴史の謎に取り組んでいると
元気になってくる私って一体。。。
次女がもらってきた法隆寺のパンフです

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今 考え中 天智天皇

6月4日
井沢元彦氏 逆説の日本史 ②古代怨霊編
に 天智天皇は 実は 暗殺された
という説が載っています
実際 遺体が埋められたという伝承の場所には
謎の祠があったそうです
今は すっかり住宅地になり、
その祠は移動して保管されてるそうです
私も ありえるな~と
その説信じてます
で、詳しくはまだ思考中なのですが
春日大社の若宮神社。。。
春日大社は藤原氏の神社。
で 若宮神社というのは
どうも若くして無念を残して亡くなった方を 祀ってるらしいのです
そして 12月17日のこの神社のお祭りには
蛇が関係してるそうで
蛇と言うと 三輪山。
三輪山は 天孫が降臨したという 尊い御山。
以前 祟りがあって 子孫のオオタタネコに祀らせたという山。
天智系天皇は この三輪山系の天皇という気がします
で、 藤原氏の系図で
このオオタタネコが 天タネコ命になってまして
このタネコの父が 天押雲命です
で、この天押雲は =天押雲根命 と 考えられているみたいで
実は この 天押雲根命は 若宮神社の御祭神です
系図で見ると 天コヤネノ命の息子になってます
天コヤネノ命は 春日大社の主祭神です
アマテラスオオミカミが 天の岩戸 に篭ってしまった時
外で 確か 芸事を披露したうちの1人のお方です
で、その天智天皇の遺体が埋められたという
伝承のあるところにあった 謎の祠
そこには 天押雲命 と 書いてあるそうなのです
ネットで見ると 関西 特に 滋賀とか奈良にこの神様
祀られてるのが多いようです
やはり 藤原氏の関係上でしょうか
若宮神社のお祭りは 1135年全国を 飢饉と悪病が襲った時
関白 藤原忠通が 当時の芸能人を集めて若宮を祭ったのにはじまるそうです
もともとは1003年3月3日に トコロテンのようなものが出現し
中から子蛇が現れたそうです
3月というと 雛の節句の頃。。
体についた穢れを祓う時期でもあります
う~ 。。その頃出現とは。。。
ほんとに 私の勝手な推測なのですが
この若宮神社のお祭り こっそりと
天智天皇を慰めるためのものではないかと
どうも思ってしまいます
天智天皇が殺され(噂)
今の天智天皇陵は 残った沓(くつ)を埋めて
沓の残された場所を 墓としたそうなのです
で、遺体が本当に埋められたあたりでは
いつしか噂で
ここに天皇(当時は皇子)が眠ってる
と 広まって 
ほとぼりがさめた頃
誰かがこっそり祠か何かを作って
それが 代々地元と藤原氏で継承されていった気がするのです
そして 藤原氏が落ち着いてきた 1135年 飢饉発生。
飢饉というと 天皇の政治が悪いからなるという 当時の考えだったそうです
当然 天皇にくっついて政権を守ってる藤原氏にとっては
天皇の危機は自分達の危機
春日大社でなんとかしなくては と思ったのでしょう
そして 占ってみたら 天智天皇の怒り とか出たのではないでしょうか。。
これは大変!
でも 堂々とお祭りしたら
病死したという天智天皇が 実は殺されていたというコトが
発覚してしまう どうしよう
ということになり
この 若宮神社でお祭りしようということになったのかもと思うのです
元々 天智天皇は 藤原氏の祖 鎌足が
可愛がって頂いた尊いお方
鎌足死後は 藤原氏は 天武天皇にはあまり
重要視されなかったみたいです
おそらく 天智が殺されたというのを
藤原氏は 気付いていたのではないでしょうか
実際 鎌足の息子 定慧 は 若くして誰かに殺されていますから
同一犯が 天智を暗殺したと睨んでいたと思います
持統天皇のとき 藤原氏は 鎌足の息子 不比等が
重用されます
持統は 父が天智です
恐らく多分持統も 父が 自分の夫に殺されたかもと
うすうすわかっていたのではないでしょうか。。
それで 夫亡き後は
鎌足の息子の不比等を重用したのではないかな~と
勝手に思います。。
藤原氏が 自分の社をあんな大きく作ることが
できたのも
天皇家から 天智を祭るように言われていたからでは
ないでしょうか。。
神社のお祭り日12月17日が 新暦かどうかなのですが
天智が亡くなったのが12月3日です
新暦では 12月17日か18日に当たるみたいです。。
もともと12月は やはり 一年の災厄を祓うということなのだそうで
神社ではいろんな行事が行われていますが
なんか ひっかかるなあ~。。
実際のその場所へ行けないので
本とネットで どんどん推測していくしかないのですが。。
考えれば考えるほど
符号がますます一致してきて怖いです。。
ほん怖の玲子さんは 
天智は病死 と視えたそうです
うーん、天武さんが 何か仕掛けてなければいいけどなあ
と 思います。。
これからも もっと考えていきたいと思います
闇の考察でした。。 
参考
逆説の日本史 井沢元彦 ②古代怨霊編 小学館文庫
2002年10月1日 第14刷発行

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源氏物語

5月26日
源氏物語のことを 井沢元彦氏は
源氏の鎮魂のために藤原氏が書いた物語
と 逆説の日本史 で説かれてます
読んで 納得~と 思いましたー。
そういわれてみれば
紫式部は 藤原氏の娘 彰子に仕えていた人
その人が 源氏が天皇に次ぐ権力を持つ栄華物語を書くのは
ほんとに おかしなことです。
うかつ~。
今まで 全然気付きませんでしたー。
安和の変で、大宰府へ追放された 源高明 はじめ
藤原氏によって排斥された 源氏への鎮魂で、
この話を書いたという説は
非常にありえる話です。
万葉集と同じく、鎮魂の書として 作られ
その目的は隠されて
皆に広く親しまれる 物語へと伝えられていったのですね
藤原氏は もともと どうも呪に関してのエキスパートだった気がします
持統天皇に仕えていた 不比等 とか
もともと中臣家は 神官ですから
そういう事に関しては通じていて
いろいろ 飛鳥とかに
しかけている気がしてます
で、子孫の道長にも それは伝わっていて
自分の子孫繁栄のために ライバル達を鎮魂しないといけない
ということで この源氏物語を書かせたのですね きっと。
言霊の利用です。。
私が思うに もしかして 紫式部という人は
もとをたどれば 源氏の血を引く方なのでは?
と 勝手に推測しました
その昔 祟りがあった時、
子孫を探して そのものに先祖を祀らせた
という お話があるからです
三輪山でしたか?オオタタネコだった気がします
紫式部が 源氏物語の構想を練ったという
石山寺
高校の修学旅行で訪れましたが
山の中で きっと ものすごく月がきれいだろうなーと思える
落ち着いた場所でした
あそこで きっと 源氏の御霊と向き合いながら
物語のヒントを得ていたのは 充分ありえる話だと
思います
石山寺というのも 考えすぎかもしれませんが
元々は 聖武天皇の発願でできた寺
で、聖武天皇といえば 天武系の方。
娘の孝謙天皇には子がなく、
系統が滅びて 天智系に移ってしまった
(多分 藤原氏の陰謀によって)
お気の毒な天皇。
そういう天皇の発願の寺へ行って
同じく滅びた源家の 栄える物語のヒントを得たのでは。。
多分 鎮魂でもなければ
天皇家を 侮辱するという理由で
スキャンダルだらけの あの物語は
敬遠されてた気がしますー
当時 皇室不敬罪は なかったのでしょうか。。
私は でも あの物語は好きデス
どうしてだか 魅かれます
先日 ふと思いました
紫式部は 自分を 男の源氏に置き換えて
あの物語を書いていったのではないか。。
勿論 誰にも悟られないように。
おそらく教養のあった式部のことでしょうから
不義・密通とか 自分ではとてもできないことであり
また 世間的に許されないというのも充分承知していたと思います。
だからこそ、物語の中で 自分を源氏に置き換えて
普段出来ないことを 願望として反映させて
自由奔放に 女性と親しくさせていたのではないかな~
勿論 そういうことは 最終的には空しく
身近な人を悲しませることだと
わかっていたので
源氏が 山にこもって 1人で御隠れになるという結果に
したのだと思います
宇治10帖は 最後 女性の浮舟 が主役みたいな感じですが
あれは もしかして 彰子のライバル 
多分 道長のやり方への気疲れで早世した藤原定子 への 哀悼でしょうか
2人の美しい皇子(薫、匂宮)からの求婚を断って 命を絶とうとして失敗
出家して 身を隠して生きる生き方。。
もしかして 定子が 長生きしてたら 
きっと 道長の栄える世を儚んで そんな風に生きたいと
思っていたに違いありません。。
式部が 彰子に 仕えるのは
定子亡き後です
恐らく 定子の鎮魂もしなくてはと
思ったのではと 勝手に推測します
あー、でも 光源氏の君の 早世したお母さんが
定子のモデルかなー。
一条天皇と深く愛し合ってたのですよねえ。
藤原 道長 966-1027
清少納言 966?-1025?
藤原 定子 977-1000
紫 式部 979?-1016? 1005年12月29日から1008?まで 彰子に仕える
源氏物語は 1001年には相当部分が出来上がっていたらしい。
参考文献
逆説の日本史 4 中世鳴動編 井沢元彦 小学館文庫 1999年1月1日 初版

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万葉集 ゲゲ訳 巻第三-416 挽歌

3月11日
    大津皇子被死之時、磐余池般流涕作歌一首
百傳 磐余池二 鳴鴨乎 今日耳見哉 雲隠去牟
   右、藤原宮朱鳥元年冬十月。
大津皇子の被死(みまか)らしめらえし時に、磐余(いはれ)の池の般(つつみ)にして
涕(なみだ)を流して作りませる御歌一首
ももづたふ 磐余の池に 鳴く鴨を 今日のみ見てや 雲隠りなむ
右は藤原宮の朱鳥(あかみとり)元年の冬十月。
中西進先生訳
百に伝う磐余(いはれ)の池に鳴く鴨を見るのも今日を限りとして、
私は雲の彼方に去るのだろうか。
 686年10月3日
ゲゲ訳
大津皇子が 持統天皇から罪人として死を命令された後、
自分の宮のそばの磐余(いはれ)の池の堤にて 死の直前に
涙を流しながら、御つくりになられた御歌一首
ただ一人の子どもへ伝える皇位。昔昔、天皇がおつくりになった
磐余(いはれ)の池で、勝ち残った鴨が声を上げて時を告げている。
同じ天皇の子どもなのに、どうして私は雲に隠れる運命なのだろうか。
             
天武天皇の亡くなった後すぐに 大津皇子の謀反が発覚して
すぐさま 持統天皇によって死刑を命じられます
昔から 持統天皇が自分の皇子の草壁に皇位を継承させたくて 
優秀で邪魔な大津を死においやった
と 言われています。 
大津は 持統にとっては 実の姉の子どもなのです
大津にとって、はめられたくやしさと
相手が 母の妹 叔母 ということで
かなりの、言うに言われぬやりきれなさが
あったものと思われます
日本書紀には 大津の刑死後、
妻が はだしで走ってきて 遺体にとりすがって泣いた後
後を追って自害したとあります
古代歴史ファンにとっては、有間皇子に続いての
悲しい 無実の死です
とても有名な歌ですが
私は 死の直前に なぜ 鴨を見て泣くのか? と思いました。
時期的に、鴨がたまたま池にいたのでしょうけど、解せませんでした。
何か言いたいことがあるのでは?と思いました
百傳ふ 百伝う 数えて百になる意 石にかかる
      
專・・・ 子どもが糸巻きを回す意。手から離さないところから、独り占めの意
磐余(いはれ)の池 17代 履中天皇がつくった、と言われている
鴨 雄の羽色は派手、雌は褐色。日本には秋に渡って来て、つがいをつくり
  春に北方の繁殖地に戻るものが多い。
甲・・・よろい、
鳴・・おすのにわとりの形と口とをあわせて
   おすの鳥が時をつげる鳴き声
古代の天皇が造った池で 鳴く鴨 は
私にとっては 天皇家の勝ち組 に 思えました
皇位を継ぐ鴨しか この池で鳴くことができないのです
その鴨を 堤から 見ることしかできない自分
恐らく 大津は その鴨に 草壁の誇らしげな姿を
見た気がします
あちこち調べて見ますと 鴨 は どうやら 王家の象徴らしいです
過去にも 鴨族という一族がいて、葛城山麓に葛城王朝を築き
9代目のとき、三輪山麓の10代祟神天皇に滅ぼされてます。
鳴鴨乎 ・・鴨 を はさんで 嗚呼 がかくされている気がします
       一つ 口が足りないのは 口減らし ということかも。
       草壁は残るが 自分は消える 
雲隠・・・ 皇族自らが 死の敬語表現を使うので これは代作ではないか
      という説もあるそうです
      私は 草壁に対する 大津の皇族としての
      精一杯のプライドではないかと思います
      無実の罪で 死を 選ばなければならない無念さ
私が思うに、死の前に歌を読むときは 自分が雲隠る
とは はっきり言わないような気がするのです
有間皇子も 有名な死の前の歌で
・・・もし命があって帰ることがあれば、また この枝をみたいなあ
と 詠んでいます
大津は あえて はっきり 自分はこれから死ぬ
今日耳   今日を限りとして
雲隠去   消えていく
こういう気持ちって
俺は無実なのに 死を命じられたから
今すぐ死ななければならないんだ!
という 悲鳴にも似た叫びのような気がします
結局、大津亡き後、草壁も亡くなり、皇位を継ぐことは
ありませんでした
奈良の薬師寺には 伝大津皇子像と呼ばれる座像があるそうです
寺伝によれば、大津皇子の鎮魂のために制作・奉安されました
通常は秘仏だそうです
竜王社というところに奉安されていたと伝えられているそうです      

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バブル

3月10日
映画にもなった1990年代の バブル期です
私の20、30代に当たります。。
映画では 若い男女が華やかにやってますが
私には 全く 関係がなかった時代でした。。
世間が バブルで浮かれていた頃
我が家は 一番 貧乏だったからです。。
出産後、私は正社員の仕事をやめました
で、だんなのお給料だけで生活を始めたわけですが。。
悲惨でした。。
初めての子どもなので 服からミルク 何から何まで
買ってやらないといけません
しかも 春、夏、秋 冬 と全部洋服、下着などをそろえてやらなければ
ならないので もう本当にすごいお金がかかりました
おまけに ミルクをものすごく飲む元気な子どもで。。
ミルク代がかかる、かかる。
ミルクも ものすごく高いんですよ
大一缶 一週間持てばいいほうだったので
大人の食費を削って ミルクに当ててました
母乳は まじで安上がりでいーなーと思いました。。
そんなこんなで 家にいて 子どもの世話をしてたら
新聞や テレビで なにやら バブル
と言う言葉を見かけるようになりました
ジュリアナ とか お立ち台 とか
何のこと??と まじで思ってました
そのうち 今は 土地の値段がものすごく上がって
みんなすごい金持ちで 企業は お金があるから
接待の嵐 だという情報を得たのです。。。
そして 私と同年齢くらいのOLは 会社でちやほや
ミツグくん、あっしーくん、などなど男子を従え、
店で 踊り狂ってる というのも聞きました
えーー!そうなんだーー!!
人が貧乏であえいでいる時に
世間はそんなのに いつのまにかなってたんだ~~
どうりで 訪問販売で 投資しませんか とか
電話で 株買いませんか と、よくかかってくるな~
と思ってました
バブルだったんだ~~
本当に 知りませんでした
ただ 眉毛が濃い化粧が流行ってきたのは
知っていて
気持ち悪い・・・
と思ってました。。
私は そんなに眉はこくないのです。。
その化粧はしなかったので
今 当時の写真を見返して 
自分の選択は正しかった!
と ほくそ笑んでいます
で、いつのまにか 
バブルは はじけてしまいました。。。
企業は とても大変だったようで
いまだに 当時の過剰な設備投資が
尾を引いて 倒産してるとこありますよね
我が家も少し影響がありました
うちの自営のお店に
若い証券マンが 何度も来て
安全なのがあるから と売り込んでました。
夫が 100万預けろよ
というので なけなしの必死で貯めたお金を預けました(涙)
まあー、良いときは 120万くらいになったりもしました
でも バブルがはじけて。。。
まさか と思って 新聞で確認したら 80万くらいに
下がってしまってました。。
なんとか粘って 86万位の時解約しました
10万と少しが ぱあーに なりました。。
夫に文句を言ったら 平然と
だって 必ずもうかるって あの男が言ってたぜ
と 威張ってました。。。
だって 現実に 儲かって無いじゃん
でも あいつが必ず儲かるって言ったから
俺はやったんだぜ
でも、そういうのって 最終的には自己責任なんだよ
奴に電話しろよ 弁償しろって!
転勤したよ。。。それに 全国各地で問題になってるけど
裁判起こしたって その金は戻ってこないんだよ。。
自己責任だもん。。
新しい担当者に言ってみたけど 彼も余計なこと言わないで
ひたすら 黙って聞いてるだけだったよ。。
だから あいつが 必ず儲かるっていうから
俺はやったんだよ
文句があるなら あいつに言え!
金返せって!
・・・だめだ、こりゃ。。。
上の話は 教訓として 我が家に代々伝えていきたいと
思ってます。。
子供に話したら 一言
。。人のいうコトって簡単に信用するな
って 学校の先生が言ってたよ
と言ってました。。
バブルと聞くと、貧乏だったことや
株で損したことを 思い出します。。
あと、沢山の問屋さんの接待で 
都庁とか
横浜見学や
インテリアのショー とか ただで
見学に連れて行ってもらったことかな~~

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立志式

2月15日
次女の中学校で 中2、14歳を対象に今日行われます
見にいけないのが残念ですが
式を祝ってくださる先生方 ありがとうございます
感謝です~
長女の時はスキー教室で旅館で行われていました
今は 諸般の事情で 学校で行われます
私の時は埼玉の出身中学では なかった記憶がします
夫は宇都宮出身ですが あったらしいです
そうなんだ~ 有名な式なんだ~
ネットで 調べさせていただきました
安政の大獄で26歳で刑死した 橋本佐内(天保5 1834~ 安政6 1859)
が 十五歳の時 書いた戒め 啓発録 が こういうふうに
立志式へと 繋がっていったようです
雅心を去る
辰気(気を振るえ)
立志
勉学
交友を択べ
これからの自らの生き方を明らかにするための戒めをわずか15歳で書いたとは
本当にすごい人です
元服 のようなものでしょうか~
ちゃんと、立志式に向けて 県知事もメッセージを贈って
下さるのです 県内どこ中でも 行われているようです
次女たちも これからも
頑張って 自分を高めていってね~
先生や 電気水道ガスなどを支えてくれる人たち、警察の方
海上保安庁のみなさんなどなど(次女のクラスで人気)
たくさんの人に 感謝してね~
私も 子ども等の手本となるよう 気をひきしめます~
おめでとう~ 立志式

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ご先祖の思い

1月29日
もはや私の口癖となりましたが
先祖は 新田義貞に仕えていた I 家の 家来、
戦に負けて逃げてきた
という伝承が伝わっています
で、時に思うのですが、先祖の血をひいている以上、
何かやっぱりかかわりがあるよな~ と。。
ある本で読んだのですが、やはり
先祖や、先祖の暮らした地域の人々が
・・こんな土地はいやだ、もっと都会へ行ってみたい。。
とかいう思いがものすごくあると、
それは子孫に念として出てきて、その子は
東京へ行って 無理してでも一旗あげたくなるのだそうです。。
実は 私もものすごくそういう部分があるので、
同感できるのです。
他の土地へ行きたい!。。。
 
夫がよく言うのですが
オリンピックの銅メダルならいらない、とるなら金だ!
。。。私には理解できません。。
私は 銅をとり、次に銀、次に金 と
銅メダルに対して 明るい未来を描けます
自分の年齢で 次回は4年後オリンピックに出場できない
とわかっていても、銅メダルを次へのステップとして
とらえて、努力を重ねてチャンスを待とうと思います。。
こう言う考えは 戦国武将の考えかなーと
思ったりするのです。。
虎視眈々と 着実に次の機会を待つという。。
結果が期待にそぐわなくても
次の機会を待ち、どんどん地位を高めていくという。。
うおー 怖いー!
新田義貞 という武将は 変わっていて
天皇のために戦をした人です
鎌倉幕府を滅ぼしますが 
後醍醐天皇は 足利尊氏につき、
いつのまにか 足利家×新田家 の戦になり、
最期、負けてしまい、討ち死にしてしまう
悲運の武将です。。
鎌倉、京都、越前、など 日本をあちこち
戦してまわって 南朝・北朝の混乱の中、
数々の悲しい話を残した新田家なので、
さぞ、たくさんの思いが その家来にも
足軽たちにも残っていると思うのですよ。。
実家は 親戚一同、
やっぱり、天皇 のことを悪くいう人間は
ひとりもいないです。。
高校の受験一つにしても
親戚中、もっと上をめざすタイプです
安全圏で安心してる性格の人間はあまりいませんね~
 
地元というのもあまり意識してないように思います
チャンスがあれば どんどん外へ出ようという感じです
で、最近気付いたのですが
実は 分家出身の人が 日本の関東以外のとこで
政治にかかわっているのです。。
私の父が教えてくれました
割と大物なので、ブログに名前は載せられないのが
残念です~
よく考えたら、新田義貞 に縁の深い土地なんですよね
そこって。。。
多分、私の先祖も新田について そこまで行って戦をして
たのではないかと思うのです。
で、負けて こちらへ逃げ帰ってきた。。
先祖の思いの中には
その土地で天下をとりたかった!というのが
あったと思うのですョ!
最期、きっと、あそこで勝ってれば!
と思いながら亡くなったような気がするのです!
そして約660年たち、先祖の血を引く子孫が
みごと、かの地で 政治の権力を得たのです~
なんか、因果を感じましたね~
どうして その人は 地元からそんな離れたとこで
政治をやっているの~?と思ったのですが
きっと、先祖が そこへ行け~そこへ行け~
と導いていった気もするのです~
もちろん、その人のやる気と努力が実った結果だとも
思いますが、先祖も少ーし 後押しをしたんではないかと
勝手にゲゲは思うのです。。
父に言ったら
あー、なるほどなー と 言ってました~
私は結婚までは すごく 外へ出たい!でも出られないみたいな
感じでした。。
イギリス留学とか チャンスはいくらでもあったのに
なぜか 臆してしまっていけませんでした
なんか、外で失敗したら。。と言う気持ちがあったのですよね~
ものすごい慎重さというか。。
心は ものすごく外国へ憧れて
出たい!出たい!と叫んでいるのにです。。
結婚は絶対 地元の人間はいやだ と思ってました
なんででしょう。。。
なんか、栄えがない、と思ってたんですよね。。
よその土地と縁を結びたい、というような気持ちが
ありました。。これも先祖の因縁かにゃ~
よその土地と手を組む みたいな。。
今は 結婚してこの名字に変わったら
あまり何も気にならなくなりました
東京への妙な憧れの気持ちもなくなって
異常なほどの上への上昇志向も
以前よりはなくなりました。。不思議です。。
夫の名字の先祖は なんだか お殿様だったらしいのです
。。多分、平和な時代のお殿様だったような気がする。。
お飾り的な。。
夫をみると そんなふうに思います。。(毒)
危機的管理能力に長けてないし、、
自分の思い通りにならないと怒るし。。
突然の出来事にすぐうろたえて
一家の長として適切な行動とれないし。。
周りが みんな自分にかしずいてないと不機嫌だし。。
そんなことでは 陰謀うずまく戦国時代。。いや、平成を乗り切れないよ
と思うのですが。。
いやきっと、私の実家が個性が強烈なのでしょう。。
負けず嫌いで 作戦を練るのが大好きという。。。
おそろしい 家風 ですね。。
母も 結婚して 名字が変わったら 強烈な個性に
なった気がする。。
結婚前は もっと ほんわかした人だったらしい。。
お題は sashaさんの おとといのコメントからヒントを得て
頂きました~
sashaさん ありがとうございました~\(^o^)/
平家の方って たいら、(平良、多比良など) ひら(比良、平など)
 って名字は全部ご子孫って聞いたことがあります~
栃木の山にも 落ち武者伝説があります~

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1月15日
姓名の暗号 と言う本に載っていました
結婚は 長男は長女と 次男は次女と することになっている
家は三代で衰退する
など、私の長年の疑問にすっきり答えてくれたのでした
家は 三代目で跡継ぎがいなくなってむこをとったりして
なんとか盛り返していくそうで、またその後三代で衰退
盛り返す というのを繰り返していくのだそうです
うちも 娘二人なので 衰退期だそうです
でも 逆に 娘だけというのは 家に力がまだ
残っているそうなので 本当に衰退して
盛り上げていかなくてはならない家には
男の子だけがたくさん 生まれるそうなのです
昔から なぜ 本家なのに 衰退していくんだ
という家をいろいろ見て来ましたが
それは 自然の平等理論というか
分家も栄えていくチャンスを 公平に持っている
ということだそうです~
織田信長も 本家は滅びて
今の家は 信長の腹違いの兄?でしたかね
その系列ですよね
私の父の実家も 新田義貞の 頃 からで
父の実家が本家なのですが
。。はっきりいって 戦国時代に分かれたらしい分家の
ほうが 今は栄えています
父の実家は 3代前(父の祖父) ものすごい家衰退の危機だったらしいですが
やはり ぞくぞく男子誕生で 
父も男4人 兄弟 で なんとか 家をもりたてていったみたいです
今は三男が跡を継いでます
跡を継ぐというのも 順番で
その父が 三人目の生まれだと その子も三人めが
跡を継ぐことになっているのだそうですよ~
すごい 不思議です。。。
うちは 父が4男 母が三女ですが4番目の子ども
私が嫁にでて 弟が独身
本当なら 4番目の子どもが跡をつぐのですかな~
でも、母が生前 不思議と子どもは二人しか妊娠しなかった~
と言っていましたので、 多分 弟が跡を継ぐのでしょう~
この宇都宮の家も
父は5番目のこども、母もどうやら5番目のこども
夫 妹
そして 嫁の私と 娘二人 となってます
ちょうど 娘二人の時代が衰退の時期になってます
父の父は婿なので 衰退の始まりと数えるそうです
母の家も 母の母は後妻で やはり衰退の始まりなのです
だけど、娘二人で まだ家に力はあるということですから
まあ どうにかにゃるさ と あんまり私は何も考えてません~
家のことで悩んでいたら 自分の人生 楽しめませんと思います~
どうりで 彼氏。。次男とつきあったことありましたが
続かなかったですね~
つきあいって 不思議な縁だと思います~
よく ひとりっこ通しが結婚しますけど
あれも きっと 自然とそうなってしまうのでしょうね
なんだか ご先祖様が嫁や婿を陰で選ぶそうです~
そして ご先祖様が 赤ちゃんの名前を決めてるんだそうです~
姓名の暗号  ほんとに不思議な本です~

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父の兄 伯父さん

12月25日
父の長兄 一番上の兄は 平成16年10月に83だったかで亡くなりました
父は4人男だけの兄弟の末っ子で、兄とはかなり年が離れていました。 
連絡を受けて 私はお通夜に参加するために日曜日実家に帰りました
「ただいまー 来たよー」
「おう、来たか」
父が喪服を着ながら 玄関に来ました
私を見るなり、
「子どもはどうした?」
と聞きます。
「明日 月曜日で学校だし、
子どもも日帰りじゃ疲れると思って連れてこなかった。」
「なんだー連れてこなかったのかー」
「・・・・・」
弟が二階から降りてきました
「ねーちゃん、子どもは?」
父と同じことを聞きました
「明日学校だから連れてこなかった」
「なーんだー、いないんだー。ねーちゃん 一人か~。つまんねーのー」
「・・・・」
そのまま宇都宮へ戻ろうかと思いました・・・
私一人じゃ不満なんですか~~?!
ぐれて不良になってやる!と思ってしまいました
そして、伯父の葬儀場へ、近くだったので歩いていきました。
行ってびっくり。
そこは遺影がコンピューターの画像なのですが
ロビーにかかっている案内用の画像が伯父ではなく
違う男の人の顔なのです。。。
あわてて受付へ走っていきました
受付には伯父の30歳の男の孫と、私の一つ年上の従兄弟が
二人でいました
ねえ、あの写真伯父さんじゃないじゃん!
言ったほうがいいよ、間違ってますって!
いや。。別にいいんじゃない。。祭壇の写真は合ってるから
誰も見てないって。。。
と、事なかれ主義の従兄弟
いや、よくないよ、別人だよ?!
みんな 見て あれー?って顔してるじゃん
30歳の孫は この子もどうも事なかれ主義らしく
私の顔から目をそらし、忙しいふりをしていました
もういいよ、私が言うから
事務のおじさんに言ったら
えっ?! 
とビックリしてあわてて確認。すぐさま直してくれました。
・・・こうるさい小姑のようでした。。
お通夜も無事終わり、喪主の私の従兄弟が
あーー、疲れたーー。葬式って大変だよなー
と言ってました。
それを聞いたうちの父が
そうだろー?俺なんか一人で段取りして全部やったんだぞ
とえばってました。
16年1月に母が亡くなり、喪主の父が葬儀を仕切ったのです
・・・・なんだか負けず嫌いみたいで面白かった。。。
伯父は割と行動的な人で
日中国交正常化の後、すぐ中国旅行へ行った人でした
もらったおみやげはまだ大事に持っています。
香炉型のネックレスだった気がします
いつも旅行へ行った後お土産を持って我が家へ寄って
たばこを吸いながら旅行の話をしてくれました
戦争でシベリアへ行き、衛生兵として戦場にいたそうです
その話は ねだってもしてくれませんでした
多分色々つらかったのでしょう。。
私が小学校の頃、夏 喉が渇いて帰宅
台所に コップに水がはいって置いてあったので
わーい!飲んじゃえー と飲んだら それは水ではなく
日本酒でした
おえーっ。。
母があわててとんできました
伯父さんがさっきまで来てて母が気をきかせて伯父さんに酒をだしたら
伯父さんは飲まずに帰ったそうなのです
もったいないからと 台所において置いたら私がうっかり飲んでしまった次第でした。
まずかった~
水だと思って飲んだから余計おいしくなかった~
酔っ払って寝込みました。。。
長兄のすぐ下の兄も平成3年に亡くなってます
父のすぐ上の兄は元気です
父は みんな死んじまったなー
とたまに言います
(いやまだ上の伯父さん生きてるじゃん。。。)
おおみそかが近づくと、父の実家で
親戚一同集まって 餅つきをしたのを思い出します。
まだ若かった父の兄弟が順番につき、祖母や 伯母たちがこねて
孫の私達が周りで はやしたてて
それはもうにぎやかで楽しいひと時でした
つきたてのおもちは熱くておいしくて
あんこや大根で従兄弟達とふーふー言いながら食べたものです。。。

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万葉集 ゲゲ訳 巻3-268

12月24日
    長屋王故郷歌一首
 
吾背子我 古屋乃里之 明日香庭 乳鳥鳴成 嶋待不得而
右今案、従明日香一、藤原宮之後作此謌歟。
 長屋王の故郷の歌一首
わが背子が古家の里の明日香には千鳥鳴くなり島待ちかねて
右は今案(かむが)むるに、明日香より藤原の宮に遷りし後にこの歌を作れるか。
中西 進氏訳
 
あなた(妻の父の草壁皇子)のもと住んでおられた家のある里の明日香では
千鳥が鳴いているようです。荒廃した庭園に山斎(しま)が再びできるのを待ちかねて。
長屋王は 天武天皇の皇子 高市皇子の皇子。
藤原宮時代 長屋王は11歳から26歳 
ゲゲ訳
背・・山背大兄王 聖徳太子の皇子 入鹿によって責められ自害したといわれている
我・・蘇我蝦夷、入鹿、石川麻呂、はかりごとによって殺された蘇我一族
古・・古人皇子 叛意がないことをみせるため山に隠れたが 結局自害した
乳・・蘇我一族に仕えた 乳の民。石川麻呂の娘に孝徳天皇妃、乳妃もいる
私の父、高市の皇子は藤原家に殺された。自然死ではない。
飛鳥では 山背大兄王、蘇我一族、古人皇子が 藤原家の陰謀で殺されている
再び、蘇我馬子殿の頃のように蘇我一族が栄えることを
乳の民はじめ 私、皆が待ち望んでいる。
(藤原家はほろびるがよい)
このうたは 一見 のどかに飛鳥の故郷をなつかしむ歌のようです
藤原宮にて 長屋王が 妻の父の草壁皇子の家、
飛鳥にあった嶋の宮を偲んで作ったようですが、
なんだか、あまりにも素直すぎて逆に??と思ってしまいました。
長屋王は 後年、天皇の皇子を呪ったという疑いで
藤原不比等の4人の息子に責められ自害しますが
後日、無実が判明するという、悲劇の王です。
父の高市皇子は 持統天皇の政治をサポートしている
栄華の絶頂期に亡くなっています。
私は この素朴の歌に何か 隠したのではないかと
思いました。
背、我、古 の字を見て
あらー 陰できっと、藤原家が糸引いて亡くなっ方たち、
しかも蘇我家の血を引く人ばかりと 思いました
天皇家の血の争いは 多くは 仕える家の人間たちが
天皇のきさきとして 自分の家の娘を嫁がせ、
皇子を産ませて 実権を握る歴史でもありました。
蘇我家直系が滅びたのは、蘇我家の横暴よりも
藤原家(中臣鎌足)がうまく 天皇と 蘇我の傍系を操って
蘇我家直系を滅ぼしたのではとも言われています。
藤原京では 藤原不比等がどんどんのし上がっていきました
藤原家にとって じゃまな存在が
高市皇子だったのは有名な話です
長屋はそんな空気を読み取っていたのではないでしょうか
そして、その気持ちを 妻の父の昔の家の歌に
かこつけて 藤原家が滅びればいいという歌を
作ったような気がします
草壁皇子の家の嶋の宮は その前の持ち主は蘇我馬子でした
馬子は 普通に自然死ですが、蝦夷、入鹿は責められて滅んでいます
蘇我家が滅びたので、家は草壁皇子に払い下げられたのです
草壁皇子の母の持統天皇の父は天智天皇ですが
母は 蘇我石川麻呂の娘 です
草壁皇子も蘇我の血を引いているのです。
嶋の宮 は蘇我家の血をひく者の象徴なのです
乳の民は 山背に仕えていた乳部(みぶ)の民として 書紀にも名が載っています
ですから、子々孫々 蘇我家の復興を願っているのではないかと考えました
草壁皇子は皇太子でしたが 天皇になる前に若死にしました
体が弱かったのでは と言われています。
長屋は草壁の死も本当に病死かどうか疑っていたのかもしれません
この歌を沓冠読みをするとこうなりました
わがせこが ふるやのさとの あすかには ちどりなくなり しままちかねて
わ    が ふ       の あ    は ち      り し       て
吾が     父の        嗚呼     散り       死て

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万葉集 ゲゲ訳 巻1ー22 雑歌万葉集

11月24日 雑歌 巻第一 ー 22

十市皇女、参 二 赴於伊勢神宮 一 時、見 二 波多横山巌 一 吹黄刀自作家

河上乃 湯都磐村二 草武左受 常丹毛冀名 常処處女煮手

十市皇女の、伊勢の神宮に参赴(まゐおもむ)きし時に、波多の横山の巌を見て、吹黄刀自(ふきのとじ)の作れる歌

河の上(へ)の ゆつ岩群(いはむら)に 草生(む)さず 常(つね)にもがもな 常処女(とこをとめ)にて

中西 進氏訳

川のほとりの聖石には苔もはえていない。あのようにいつも変わらずにありますように。永遠の少女(おとめ)として。

ゲゲ訳

川よりも大きな海の字を持つ父上、大海人皇子が 前王朝を打ち破り、新しい王朝をお開きになった。その都には、わだかまって 生死をはかられている木がある。草壁皇子は その生をまっとうしそうにない。木のそばに 二本 草が並んで生えている。二本の草は 日の御子である。右のお方は大津皇子。 左のお方は 武を授けられて 壬申の乱で活躍された 高市皇子である。髪に 長く赤い布をつけ、私は 宮で神に祈ります。高市皇子と ねがわくは 天子・その夫人となり、国土をともにおさめたい。夜、名前を名乗りあいたい。一度は 他のお方に嫁した私ですが、はげしい恋に燃え上がる 永遠の少女として あなたと愛しあいたい。

この歌の作者の 吹黄刀自(吹芡刀自) は 誰かわかってないそうです。十市皇女と 阿閇皇女 が 伊勢へ 行った時に お供した 女性ではないかという説があります 私は 十市皇女本人のペンネームではないかと思っています「額田王の暗号」の藤村由加氏 が 額田がいくつか名前を変えて作った歌が万葉集に載ってるのを 見つけているからです。十市も 名前を変えて 歌をつくったのかもしれません。

そして この歌は 万葉集では有名な 額田と天武の歌

20 あかねさす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る

21 紫草のにほへる妹を憎くあらば人妻ゆゑにわれ恋ひめやも

これらの歌の次に 配置されている歌だからです.

十市は 二人の子どもです。順番的に この歌が 十市の歌であると暗示してると思います

十市皇女の歌は 万葉集には ないそうです。私の推測では 日本書紀に その死が詳しく載っているので 万葉集に歌がないのだと思います

十市が死んで高市が作った歌が3首 万葉集に載っていますので, 十市と高市は 愛し合っていたのではないかと、 昔から言われています

十市は 天智天皇の皇子 大友と結婚しましたが 壬申の乱 勃発で大友は死去。父 天武のもとに帰ってきました。そして 阿閇皇女とともに伊勢へいくと 書紀にも書いてあります。そして 伊勢から戻ったという記載もないまま 突然 十市は 宮中で没します。自殺と言われています

私は 十市と阿閇皇女は ふたり 草壁皇子の 妃 となるため伊勢へ 行かされたのでは と思います。十市は 前王朝の妻ですから、今の王朝の王が 妻にすれば はくがつきますし、前王朝側の生き残り達も 今の王朝に従わざるを得ないでしょう。 阿閇皇女は 草壁の妻になっています。

だけど 多分 なにかがあって 十市は 亡くなってしまったのです。。それが 何か。。。殺害されたとか、高市への愛を貫くため 死を選んだとか色んな説があります。。。 そんなこんなで この歌は 絶対 十市の 高市への愛の歌だ!と多少 思い込みまして 訳に挑戦してみました

赤い色 が よく目につく歌でした 

湯、 草、 丹、 煮、  太陽や 火 などの象形漢字で 赤い色がかくされてます壬申の乱で 天武軍は 赤い布を つけて 戦場の目印としたそうですからそれを ほうふつさせているのでしょうか

吹黄刀自 ですが 黄色です。 赤よりうすい 炎 の色です。もうひとつの吹芡刀自は 芡 は すいれん科の水草で みずぶき という名だそうです。色は 黄色でしょうか。この 黄 という色、恐らく 一度 敵方の 大友に嫁いだため 赤になにか混じった という 気持ちが込められている気がします。黄色い炎は 息で強く吹くと ぼーっと 赤く燃え上がります。みずぶきの花は 何か 十市と高市の間で 思い出の花なのでしょうか。。

ゲゲ的解釈

河上乃  かわよりももっとうえの 海の。大海人皇子。十市の父。

湯 右の 易 は 太陽が地上にあがるさま。 日、天子が国をおさめるたとえ。古代中国で 湯 という人が 前王朝を破って 殷王朝をひらいた。

磐 盤とも。 大きな舟の形をしたたらい。不安定そう~。 村 右の 寸 は 右手の手首に親指をあてて脈をはかるさま。木の 脈を はかっている感じがした。盤根 として  わだかまってる根 という熟語があるので   盤村 では わだかまって(壬申の乱でもんもんとして 肉体的にも弱くなり) 脈をはかられている 一本の木 皇太子の草壁皇子という風にとれる と解釈。

草 かんむりは 二本 並び生えた草の象形。 

早 は 日の光のひらきはじめ、夜明け。 これから輝く日の皇子二人、天皇の皇子ふたり と解釈。木 よりも  ちいさいので 草は 大津皇子、高市皇子 と した。大津は 母が 草壁の母の亡姉。血筋ではナンバー2。高市は 壬申の乱の総大将。母の地位が低く  ナンバー3。 草 の 語の前に 歌では 二 とあるので やはり これは 二人をしめす と思う。

武左受 左が武をさずけられた と解釈。武 といえば 書紀にものっている 壬申の乱で活躍した 高市皇子。ナンバー3 ではあるが 実力があるので 大津皇子と 同格ともとれる。

草武左受  くさむさず。 草を草壁皇子ととると 草は はえない。 つまり 草壁皇子は いずれ死ぬ。父のあとをついで 天皇になることはないだろう、と解釈。

常丹毛  常の うえは 向 と 八 。向 は屋内で祈るさま。八 は 神の気配が下るさま。十市 は 伊勢神宮へ行かれたので そこで 祈ると 解釈。したの 巾 は 布。 侍 二 巾櫛 一 (きんしつにじす てぬぐいとくしをとって夫につかえる意) ということばがあったので 毛 は 人間の十市の髪の毛ではないかと思った。

丹 は 赤い色。 赤い布をつけて 祈る ということは 特別に神聖なことかと想像した。

冀  北 と 田 と 共 が くっついた漢字。 北は 天子が南面する と解釈。人がふたりの意味。 田 は 田んぼ、大地。 共 は大きなものを両手 でささげる意。 ふたり 天皇と皇后が 南の土地を共におさめる、 高市と十市が ふたりで 日本国をおさめる と 解釈。

名  暗い夕方に名をなのる意。 恋人 夫にしか 妻は名を言わないので 結婚する と解釈。

常処女煮手  煮 の下 は 火 の 意味。 火の手 ということばから めらめら燃え上がる 激しい恋の火を 想像。 処女を 神に対するものよりも 一度 敵方の 大友皇子の 妻になった事実を 打ち消したい というふうに解釈

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父の誕生日

11月16日
本日11月16日は 私の本庄の父の誕生日です
昭和10年生まれ いのしし 71歳 おー来年 年男~
おめでとう~
本人は ちっとも嬉しくないそうです
そうでしょうね 私も40過ぎたら もう嬉しくありません
平成16年1月に 妻(私の母)を亡くし、
その直後は さすがに 看病疲れと 人との応対疲れと 寂しさとで
元気のなかった父ですが
16年3月に 行った わたしと 私の娘2人との 京都旅行で
元気を 取り戻してくれたようで、
今は 元気に 母の生前と同じく ツアーに参加して 国内 海外 と 旅行を楽しんでいます
家の中もきれいにして 健康的な料理を食べています
私が 宇都宮 弟が 浦和 暮らしなので
父は普段 一人で暮らしています
そうじが面倒だから マンションに住みたい と言ってますが 私が阻止しています
一軒家の庭に倒れていたら 誰か 見つけて 病院へ連れて行ってくれるけど
マンションの家の中に倒れていたら 誰にも発見されないよ と 言い含めているのです
弟が独身貴族様で たまの土・日には 本庄に帰っています
私が 本庄へいけるのも 年に数回だけです。。なんだかんだ用事で 日帰りもままなりません
父が スポンサーで  年に1回 私と娘達を 旅行に連れて行ってくれるので
そのときは 存分に楽しませていただいております。 旅行代金3人分。。ありがとう。。。。
歴史の生き証人なので 元気に 長生きして欲しいなーと思います
昭和35年まで 江戸時代につくった 築200年の わらぶき屋根の家に住んでいたとか
ばくろう? が 子馬を 置いていって それを 大きく成長させると 
その人が来て お金を置いていって馬を引き取った とか
自分からは言わないけど 私が聞きだすと 次から次へと 戦前・戦後の生活を語ってくれます
父の生家の前に 分家 があって 私の子ども時代から ずっと分家として呼んでいる記憶があったので
この間 お盆に帰省した時 何気なく 聞いてみました
分家っていうけど いつの頃の分家さ?わたしのおじいちゃんの弟が土地貰って家たてたの?
ちがうよ じいさんの弟じゃないよ もっと前に分かれたんだョ
じゃー 江戸時代?
もっと前だな
えーー じゃあ 戦国時代?? 
うん 多分 その辺だな
ひえーーー!!そんな昔~~??!!
その分家のおじさんが 歴史に詳しくて 
先祖が 新田義貞の家来に 仕えて 負けたから逃げてきたとか
父の生家が 本家 だとか 
江戸時代 隠居したじいさんが 火事を出して 家系図だの 古いものみんな燃えちゃっただの
父の兄に 教えてくれたそうなのです
あーー もっと もっと 歴史を聞かせてほしい~~
父の子ども時代の農家は きっと 江戸時代(=土方さんの頃)の生活と変わりない筈だ~
同じ武州だし~~
父は 近所とか知り合いで 江戸末期に 新撰組にはいったという人の話はきいたことがないと
言ってました
あの辺の若者は 生きるのに精一杯で 国の未来を考える余裕はなかったかなと私は思います~
来月 12月 父は 何度目かの中国旅行へ行くそうです
桂林 で 船にのるのだそうです
今 飛行機のガソリン代 けっこうとられると言ってました
一人部屋、ガソリン代、保険代 をつけると 安いツアー代金+4万円以上かかったそうです
おみやげに なんでもいいからと 水晶を お願いしました
お金は払うよ~
気をつけて行って来てね~

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昔聞いた 迷信 など

11月10日
こどもの頃 親から聞いたこと いくつか 迷信というか教訓というか あります
 
○夜、口笛をふくと どろぼうがくる
  口笛はどろぼう仲間の合図だから 口笛を吹くと 仲間に呼ばれたと勘違いして
  泥棒が来るから 吹いてはいけません と 母に言われました
○夜、お金(小銭)を数えると どろぼうがくる
  小銭のじゃらじゃらいう音がすると あの家はお金があるからと
  どろぼうが来るから 数えてはいけません と やはり 母に言われました
○雷がなったら おへそをとられるから へそを隠しなさい
  全国共通でしょうか
  おなかを冷やすな ってことかな~
○雷がなったら くわばら くわばら と言えば 雷は 落ちない
  これも 全国共通かも~
  母方の祖母が教えてくれました
  くわばらは 菅原道真公の 所領地らしいです
○みみずに お○っこをかけると 大事なとこが 腫れる
  全国共通でしょうか~
  生き物は 大事にしなさい ってことかな~
○ねこが 顔をなめていると 雨が降る
  降らなかった。。。。
○黒猫は 不吉だから 飼わないほうがいい
  父方の実家 飼ってましたね~
  とても 可愛かった。。年寄りは いやがっていたかも。。。
  真っ暗な夜 見えないのが怖かった 目だけ光って
○黒い服は 葬式の色で 不吉だから 普段 着てはいけない
 小6の時(1974年頃) 全身真っ黒でびしっときめていた きれいな若い女の先生がいました
 葬式先生 とあだ名がついてしまいました
他にも まだまだあった気がします
思い出したら また 付け加えるつもりです
 

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法隆寺 救世観音

11月7日
月曜日 のだめ(玉木さん)を 楽しく見ています
昨日は 特に 寝ているお顔のアップ画面が多かったですね~
ずっと 玉木さん 誰かに似ているな~ と思っていました
おととい、 そうだ! と わかりました
法隆寺の 救世観音の お顔です~
そっくり! いや でも 私的にです。。。。
救世観音の写真を 長女に見せたら どこが?と 言われました
ごもっともです。 ファンの人に 私は 呪いをかけられてしまうかもしれない
私が もし 古代、彫刻家で、 玉木さんのお顔を見たなら 
あのように彫刻すると 思うわけなのです
太子 やはり 山岸先生の描くお顔のように すてきなお方なのだろうな~
玉木さまに 似ていたんだ~(勝手に)
救世観音ですが 私も 梅原 猛先生の 意見と 同じです(隠された十字架 法隆寺編)
聖徳太子の一族の鎮魂のために 
後世 彫られた聖徳太子像だと思います
手に舎利容器を持ち 頭の真後ろに太い釘がささり 重い光背がのせられている
中空で 背と尻がない 生々しいお顔の 不思議なバランスの観音様
白い布で ぐるぐる巻きにされ 厨子に閉じ込められ
1200年もの間 開けられなかった 秘仏中の秘仏
明治17年 フェノロサが 明治政府の許可をもらい
法隆寺の僧たちが 逃げ出す中 鍵を開けて
やっと 陽の目を浴びました
この厨子を開けたら 最後 地震が起こり、寺は崩壊 と
言い伝えられていたなんて
やはり 律師 行信 の 厭魅の法力で 太子の怨霊を閉じ込めていたとしか
思えません~
この観音を彫った仏師は 造った後 久しからずして死んだと
言い伝えられているそうです
やはり 太子の怨霊への恐怖で 精も根も尽き果ててしまったのでしょうか~
私は この 救世観音は この目で拝見しておりませんので 
いつか お会いしたいと思っております
この目で拝見して 心にどんな感情が湧き起こってくるのか
とても 楽しみです
この救世観音様は 梅原先生の本の写真を 見た後 しばらくして
ぼーっとしている時 頭の中に浮かんできて
あーー 玉木さんに 似てる~ と 思いました~
不思議です~~

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大関 増裕 幕末の陸海軍を率いた黒羽藩主

11月5日

大関 増裕 - 幕末の陸海軍を率いた黒羽藩主

先週 県立博物館へ 宇都宮城の講演を聴きに行って
そうだ!大関氏の 企画展も 平成16年に拝見したんだ~
と 思い出しました
確か 新聞で 大関氏の企画展 あと少しで終了~
という文字を見かけ 
えっ 誰? おおぜき ますひろ?
幕末の陸海軍を率いた?
勝海舟とも 親交があった~?
1万8千石の外様大名? 黒羽藩(栃木県 宇都宮の上のほう)の 若き お殿様?
幕末の動乱と謎の死?
はてなマークだらけの方だ~~
初めてお聞きする名に 驚き 幕末なら 土方さんと何か関係ある?
と そっち優先で あわてて 企画展を見に行きました
すごい~お方でした~ 
土方さんもすごいが この人 才能ある 超エリート官僚
西洋砲術を学び 蘭学 や 英語も 勉強 
すらすら 横文字書いてるんですよ~
お顔も 俺様的な 小顔の 目がきりっとした いい男~
フランス式の海軍軍服姿で 総髪の 写真も 残っているのです~
陸軍奉行に就任したり 若年寄(海軍副総裁)になって 海軍奉行も兼務しています
かっこいい~ 若いのに~
ところが そんな すばらしいお方なのですが。。。
慶応3年 1867年 12月9日 彼の30歳の誕生日
帰藩して 領地 黒羽領 金丸の 山林で遊猟中
「全く御自分の御鉄砲に御相違もこれ無き事」の銃の暴発で 
「此の上も無き御急所」 左頬の耳の脇から右耳の上を 弾が貫通し、
お付の者が気付いた時は もう 脈もなかったそうです
・・・・・・・・おりしも 王政復古の大号令 発布の日でした
彼の死後 彼が 家中・町民・農民 に命じていた 御用金や献金が 中止となっています
事故死?自殺?暗殺? 謎の死なのです。。。。。
うっそ~ 栃木にこういうお方がいたなんて~
企画展を見なければ 知らなかったよ~
残念ながら 土方さんと 接触があったかはわかりませんが
お互いの存在は 知ってましたかね~
大関増裕 年表 (栃木県立博物館発行 大関増裕関係年表より 抜粋)
天保8年1837年12月9日  遠洲横須賀城に生まれる(西尾忠宝の二男)
嘉永6年1853年 6月    ペリー 浦賀に来航
安政元年1854年       このころから 西洋砲術を学ぶ(16歳)
   3年1856年       蘭学を学び始める
文久元年1861年       大関家の養子となって 家督を継ぐ(23歳)
   2年1862年4月8日  講武所奉行となる(24歳)
                  異例の人事 江戸落書
              外様にて奉行なすの(那須野)は珍らしし、横綱を張る肥後の大関
          10月22日 将軍家茂の上洛随行で 旗奉行の他に槍奉行を命ぜ    られる
          12月 1日 陸軍奉行に就任、講武所奉行を兼務
             20日 公務多忙のため、将軍家茂上洛の随行を免ぜられる               (25歳)
   3年1863年3月 4日  将軍家茂、将軍として230年ぶりに上洛
             15日  病気を理由に 幕府公職を辞す
           5月27日  初めて 黒羽に入部する  
慶応元年1865年7月8日   海軍奉行に就任  
           12月     アメリカ製軍艦 富士山丸を受領
   2年1866年 7月20日  将軍家茂が大坂で死去
            8月 4日  若年寄格となる
           12月 5日  慶喜 第15代将軍となる
   3年1867年 1月     アメリカに派遣していた小野友五郎に
                   軍艦甲鉄丸を購入注文させる(29歳)
            1月19日 若年寄(海軍副総裁)となり、海軍奉行を兼務
            4月10日 神奈川についた 開陽丸を視察(勝海舟同行)
            9月12日 海軍総裁 稲葉正巳とともに軍艦開陽丸に試乗
             10月14日 慶喜 大政奉還を上表、翌日 勅許
             12月 6日 洋式軍装の隊列を組んで 黒羽に入る
                9日  黒羽領 金丸で 遊猟中に急死(30歳)
                      王政復古の大号令
慶応4年1868年 1月3日    戊辰戦争始まる
黒羽藩は 新政府軍に属し 会津征討を命じられ 奥州へ出陣します
増裕 が 生きていたらね~ 絶対 幕軍だと思いますが。。。
やはり 城の中の人間に 暗殺されたのでしょうか。
亡くなったときに彼が着ていたコートが 展示されていました
左胸のところが 切れているのです。。劣化によるものとは思えません~
ほん怖の玲子さんなら きっと視えるのに~
コートは 何かを訴えていたようなのですが 私は感じることができませんでした
ごめんなさい~
狩猟中 亡くなったなんて 天智天皇を ほうふつさせるものがあります
心の中が もやもやします
黒羽へ お墓参りにいきたいです。。
東京都 功運寺にも 墓所があるそうです
参考文献 平成16年度企画展
       幕末の陸海軍を率いた黒羽藩主 大関増裕
       -動乱の幕末となぞの死ー
       企画・編集 栃木県立博物館
       発行  栃木県立博物館友の会
       発行日 平成16年10月3日
                   

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日出処の天子 山岸涼子氏

11月1日

日出処の天子 山岸涼子氏

高校 大学と 夢中になって読みました 
古代へ 興味を持った入門書です~
着眼点が さすがすばらしく 漫研のみんなと感心しながら読みましたよ~
生前は 聖徳太子と呼ばれていなかったというのも はた!と気付かされました
そして 切れ長の目で美しい顔の持ち主~  萌え~
そうなんです! 聖徳太子は 美形だったに違いない!
と妄想してもいいんだ!いうことにも気付かされました
そして 蘇我の毛人(えみし)
普通 蘇我といえば 漫画になりそうなのは 馬子か 入鹿です
それを あえて 毛人にした~うーーん!やられた。。という感じです
とにかく 日本史で 単なる知識として 勉強してきた 古代天皇と豪族が
いきいきと 漫画の中で動いているのが とても新鮮で目を奪われましたね~
皆さん それぞれに美しくて とても 魅力的でした~
そしてそして 今 私が 闇の古代史を 勉強していて思うに
実在の厩戸皇子は 山岸先生の漫画で 描いていた通りの 人だったのではないか
と 今更ながら 先生の読みに 驚くばかりなのです~
ほん怖の玲子さんも視ッちゃんも 聖徳太子は怖くてうかつに手が出せない
と おっしゃっていました
そうです きっと、 彼は すごい能力者だったと思います~
万葉集の 彼の歌を 解けば 少しはわかるかな~とも 思いますが
能力者は 痕跡を残さないものだそうなので 難しいかな~
高校の頃 学校の図書館で 聖徳太子のことを調べてみました
明治の女学校という歴史を持つ県立高校でしたので
図書室の一角に 古ーーい さわるとくずれそうな 貴重な本が
たくさんあったのです~
その中に 厩戸皇子の 伝承が やはり のってましたよ
なんの本だったか。。名前 書きとめておけばよかったよ~
山岸先生ーすごいなーー イッパイ調べたんだな~
と、 感心してしまいました~
高校の修学旅行で 法隆寺へ 行きました
そのとき うかれていたのもあったのですが
なんだか ??  と 思ったのです
何が ?? だったのか 自分でもよくわからず 落ち着く お寺だーと感じました
梅原 猛氏の 隠された十字架 を 読みまして そうだよっ!!と
26年たって あの ?? が わかりました!!
死 の 空気なのです!喪 といったほうが いいかな~
お寺といえば 誰でも なんとなく 仏様 とか 仏像 が すばらしく
この世で生きるって ありがたいことだな~と じーん と感じる場所だとおもいます
ところが 法隆寺 は なんだか しーん としていて 
仏像も 建物も とてもすばらしいのですが そうに 
ありがたいな~ という 感情が 湧き起こってこないんですよ~
まさしく 鎮魂ですョ! 誰かのための 鎮魂の 場所です
今でも 高校の頃 感じた あの 違和感 思い出します
あそこは まさしく 墓所 です。
誰かが 眠ってます~
太子の 子孫 だと思います~
厩戸皇子の 直系は 史実では 天皇になれませんでした
漫画では 
山岸先生は 山背を 毛人と同母妹の秘密の子であったという設定にして
毛人が 山背を天皇にしなかったということを 表現したのでしょう~
当時の 継承の順序 だからとか 毛人 と 山背が 合わなかったからとか
色々 言われてますが 蘇我家も 上宮王家も 滅びてしまったので
もう わかりません。。 蘇我家にあった 国書も 燃えてしまいました~
私の推測では
厩戸皇子は やはり 天皇家の 影の部分を受け持つ能力の持ち主で
表にたつよりは 裏で いろいろ。。いう おかただったのでしょうか
そして その能力の血筋を 恐れて
天智天皇らに 追い詰められてしまったのでしょうか~
漫画 は 悲しい雰囲気で 終わってしまいました~
こんな 才能あふれる お方が こんな風になってしまうなんて!!
と しんみり 涙したものです~

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万葉集 巻二ー160、161

10月22日

万葉集 巻二ー160、161

    一書曰 天皇崩之時太上天皇御製歌二首
160    燃火物 取裹而 福路庭 入澄不言八 面智男雲 
161    向南山 陳雲之 青雲之 星離去 月矣離而
一書に曰はく 天皇崩りましし時の持統天皇の御製歌二首
160   燃ゆる火も 取りて裹みて 袋には 入ると言はずや 面知るを雲
   もゆるひも とりてつつみて ふくろには いるといはずや おもしるをくも
中西 進氏訳
   あの燃えさかる火とて取って包んで袋に入れると言うではないか。
   御姿を知っているものを、雲よ。
161    神山に たなびく雲の 青雲の 星離れ行き 月を離れて
  かむやまに たなびくくもの あおくもの ほしはなれいき つきをはなれて
中西 進訳
    神山にたなびく雲は、青雲の中の星からも離れ、月をも離れて去っていったことよ。
   ある本にいう 天武天皇が崩御なさった時の持統天皇の歌 2首
160 沓冠部分抜きで 解読
    ゆるひ   りてつつみ    くろに    るといはず     もしるをく
    許(ゆ)る拾(ひり)て 筒、躯(むくろ)、丹(に)、流(る)、と言はずも 知る置く
ゲゲ訳 
    許しを得て 魂を拾って筒に閉じ込め 躯は赤土でおおう、 
    水銀のように流れ 不老不死につながると 誰も言はなくても 私は知っている
161 沓冠部分抜きで 解読
    むやま   なびくくも    おくも   しはなれい    きをはなれ
    無や、目(ま)な引く、苦、喪を 雲、死離れ、生きを離れ
ゲゲ訳
   無が 目を閉じさせて 苦しくも 喪となる
   雲になって、死からも離れ 生からも離れて 私の血統を守って
この二首の歌は 万葉集で 超難解な意味の歌として有名です
恐らく 陰陽師に作らせたのだろうと 言われているそうです
ほん怖の玲子さんは 
前の歌と後の歌はお互いの意味を深め合って補強するんじゃないかな。
・・・・要するにこの歌は「場所」と「人」をさしているように思うんですが。
と 加門七海さんに聞かれて 答えていました
正攻法で 色々考えてみたのですが 思うようには解けなかったので
四季が岳太郎氏の 万葉言霊歌解析
を 参考にさせて頂き、
歌の 沓冠 部分を除いて 言葉を繋げてみました
まだまだです
。。。持統天皇は 手ごわいです。。。
亡くなった天武天皇の魂を閉じ込め、呪詛に使い、
自分の直系の子孫のみの繁栄を願う歌だと思うのですが、中々どうして
全然 うまく 解けません~
まだ引き続き 頑張って 解き続けてみたいと思います

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父方実家の謎

9月30日

父方実家の謎

今 私は 父方実家のことを 父たちの口承から

色々 推理したり 埼玉県の歴史研究書を見たりして調査中です

先祖伝来の史料 家系図は 何も残ってません。でも 土地を見て
多くのことが おぼろげながら わかってきました
昔からの言い伝え と 近くの神社のこと
  1. 実家の先祖は 近所の I 家に仕えていた
  2. I 家は 新田義貞の家来で 戦に敗れ 今の地に逃れてきた
  3. 1.2.を 父たちに教えてくれたのは 実家の分家の人
  4. 分家は 実家から 戦国時代に分かれている
  5. 江戸時代の古地図を見ると どうやら 父の実家が本家らしい
  6. 江戸時代 父の実家は 諏訪神社の一番正面に建っていた
  7. 諏訪神社は 由来もはっきりしない ご神体もない
  8. 諏訪神社は 管轄は 本庄の古い神社(欽明天皇2年541年)
  9. 諏訪神社は 地域の人たちに 非常に大事にされている 

私が 気付いたこと と 推測

  1. 父の実家は 本庄市の 割と高台の良い場所にある
  2. 戦に負けて逃げてきたらしいが なぜ 敗残兵狩りに遭わずにこの土地に住み続けられたのか
  3. もともと この地に関係する 一族ではないのか
  4. すぐ東側の近い土地で 戦国時代 五十子城がつくられた(いかっこ騒動)
  5. 諏訪神社は ご神体は 諏訪の山 または 新田義貞が戦死した方面の山ではないか 
  6. 本庄城は 割と近いところなので 本庄氏の児玉党とは仲が良かったのではないか
  7. 以上の事を考えるに 実家の場所は 地域的にすごく重要なところ
  8. その重要なところに長く住んでいるのだから I家と実家はただものではないのではないか
  9. 実家はすごく 雰囲気が荒い 武士っぽい
  10. 諏訪神社は 戦勝祈願神社であり 武士に人気があった
  11. I 家の家紋は 鎌倉幕府の有力御家人の家紋と同じ
  12. I 家の名字は 新田の家来の史料に同じものがある

魂的にひっかかること

  1. 小さい頃から 実家の東側方面の土地がすごくこわかった
  2. いかっこ ほりぐち という名前が 妙に気にかかっていた

実家の東側方面は 鎌倉へつながる道だったのです~

ほりぐち は 新田の家来の名でした~

I 家は 北武蔵(埼玉)の重要な 場所を 守って 

鎌倉からの攻めを 上野(群馬)の方にいかせないようにと 

上野(群馬)からの攻めを 武蔵の中に入れないようと

両方 目をひからせていた気がします~

夢でもいいから ご先祖様 出てきて 教えて下さいなーー

9月29日

消防学校1日入校

9月26日 地域の方に誘われて、婦人防火委員会主催
消防学校1日入校
という行事に参加してきました
場所は 宇都宮の隣り 上河内町にある 栃木県消防学校です
消防学校 ていうのがあるんだ~
と、その存在を初めて知って驚きました。
広い敷地に立派な建物と 立派な施設がありました
教官は 学校の先生方でしょうか~
その立派な たくましい体つきに 圧倒されましたー
おーーこれで 現場で戦ってくださっているんだーと 感謝です
大風
地震 
火災の煙(ほたてのエキスの煙で再現)
を 部屋の中で初めて体験しました これが実際だったら大変なことですー
パニックになりそうでした。
お人形を使っての一次救命処置も 勉強してきました
以前 6年前 子どものプールの時期に合わせて 小学校で講習を受けましたが
そのときとは また変わっていました。
こういう処置は 特殊なものなので おそらくこういうやり方がいいだろう
という学者の研究で 年々変わっていくのだそうです。
倒れている人に 息をしている様子がなかったら
気道確保
人工呼吸を2回
胸骨圧迫30回 を くりかえす
細かいことは 大人 子ども 乳児で いろいろ数が違いますが
とりあえず 心臓を動かすのが一番の最重要課題でそうです
たとえ 頭から大量に出血していても 足が一本とれていても
胸骨圧迫をするのが優先順位だそうです
そうですよね 血が止まっても 心臓が止まって息をしてなかったら
元も子もないです
胸骨圧迫は
水戸黄門 または あんぱんまんのマーチにあわせて行うと ベストの早さだそうです
人工呼吸は
この人 知らない人だカラ いやだわ
と思ったら しなくていいそうです
とりあえず 胸骨圧迫を 誰かつかまえて 交代で行い
救急車が到着まで 頑張って続けるのだそうです
先生方は 時に冗談を交えて 愉快に 真面目に指導してくださったので
奥様方は 大満足でした
やはり 第一線を潜り抜けた方々というのは
落ち着いていて 何かこうオーラが違っていましたー
黙っていても凄みがある・・というのでしょうか~いぶし銀のような~
半日 午前中 の体験でしたが
防災食の おいしい 五目おこわを頂きまして 終了となりました
教官の面白い先生方 ありがとうございましたー!
貴重ないい体験をさせていただきましたー!!
写真 バケツリレーで優勝した私達の班が頂いた景品
9月28日

後ろにいるお方

昨日 雑誌
ほんとにあった怖い話
あなたが体験した怖い話
を買いました。
いつも楽しみに買っておりマウス
勉強になります
よく 人には 守護霊がいると言いますが
それって 視えない私には全然感じることがないので
ほんとかな~と いつも思っていました
でも 私の好きなシリーズ漫画を読んで
そういえば、いらっしゃるかな~
と 考え直した次第です。。。
実は 母が亡くなってからというもの
私が 落ち込んでいると
私の頭の上のほうの髪の毛を一本  誰か視えない人が
つんつん ひっぱるようになったんです
今までは 亡き母かなと思っていましたが
本を読んで 
・・・母ではなく 違う人かも~
と 昨日 しみじみ 考えてしまいました
母は多分 霊界を エンジョイしているような気がして
私のところには いないと思います~
試しに 後ろの方に
今まで 色々助けてくださってありがとうございます
と 言ってみたところ 
私の背面が ぽわ~んとあったかくなって
心の中に ぬくもりというか 優しさというかそういう感情があふれてきました~
そう・・本当に色々助けてもらいました。。。
夢ばっかり見て 現実の世界で生きていけるのか?ぐらいの私を
ここまで支えてくれました~
なんとか 43年間生きてこれたのも 後ろのお方のお陰です。。
私の頭を よしよししてくれる時に 髪の毛がひっかかるのかも知れません
私は 怖い話がすきなのですが
怖い話を読んだり 聞いたりしていると その場の空気が
いや~なものに 変わっていくのをなんとなく感じていましたー
漫画を読んで その感覚は正しいものだったとわかりましたー
・・・呼ぶんだそうです。。。。
で、そういうイヤーな 空気を 後ろのお方が頑張って払ってくれるそうなんです
・・・今まで すみません 興味本位でした。。。
ここ2.3年は 私も なんだか敏感で、
あんなに好きだったテレビの怪奇ものを 
体調が悪い時 または 今は見るとやばいな と感じる時があり
全く 見なくなりました。。。
すごい いやな波長をテレビから感じて 家の中の空気が淀んで
自分の持ってるパワーが汚される 。。。そういう感じでいっぱいになるんです
後ろのお方 ありがとうです~
そういう 空気 きれいにしてくださっていたんですね~
その2冊の本を買ったとき 店員サンに
間違ったら ごめんなさい 渡辺さんですかー?
と 旧姓を言われたのでびっくりして その方のお顔を見たら
ななんと 高校の時の同級生でした!!
えーーーっ!!25年ぶりーーー!!
感動の再会です!名簿で 彼女が宇都宮にいるのは知ってましたが
まさか 馴染みの本屋で 偶然会えるとは!!
彼女も 私が宇都宮にいると知っていたそうで
前回 私が その本屋さんで買ったとき
もしかして。。。?
と思ったそうなんです~
前回。。。。フルバの最新巻 買ったときだーー
今回も また 漫画。。。。
きっと 漫画を買ってるのを見て
高校時代と変わらないなーと
思ってくれたのでしょう~
彼女も 相変わらず 美少女のままで変わってなく すぐわかりました~
おとといは 救急救命の講習会で
次女たちのマーチングを 全国大会まで導いてくださった先生に
2年ぶりに偶然お会いしたし~
これも 全部 お導きかも~
後ろのお方というと ややきびしいところもあるそうなので
これからも 黙って見守ってください~
よろしくですーーー
9月27日

埼玉のマスコット コバトン

9月24日 弟は 何か 募金活動のボランティアで、実家へは帰ってきませんでした
その代わり 
タイトル コバトン出動
と携帯に画像を送ってよこしました。
埼玉のマスコット コバトンが 募金会場に来てくれたそうですが
そのコバトンを見て
私と 子等二人は あまりのインパクトにびっくりしてしまいました~
ひよこ?ペンギン?あひる?
次女は
エリザベスだ!!足がおっさんじゃない!!
と絶叫していました。
そうなんです。。 なんだか 銀魂 ずらのぺット エリーを彷彿させるものがあるんです~
コバトン・・・小鳩・・・?
いい感じ・・・怪獣みたいで~
埼玉県庁のホームページにくわしくのっていました~
ホームページのイラストのコバトンは ちょっと どじなとこがある 
ユニークな鳥のようです。。。
愛らしいコバトン 
がんばれ コバトン
埼玉の平和は君にかかってる!
全世界に 笑いをふりまくんだ!!
実物に会って あのインパクトを再び味わいたいです。。。
肩をたたいて 
よう!元気?
と なんとなく やってみたい。。。
弟 撮影 手伝いのコバトン
9月26日

アレルギー

子どもの頃から 体が弱かった私は
風邪をひく、 熱をだすは お茶の子さいさいでした
季節の変わり目に熱が出るのは当たり前と思っていました
冬の間はずっと 春が来るまで 鼻炎でした
口内炎はいつも出来ていて、蚊にさされると手足はすぐ化膿し 中々治りません
食後すぐ立っていると おなかが気持ち悪くなり、酷い時はもどしてしまいました
夏の間 プールで体を鍛え、一年中外で毎日遊んでいたにもかかわらず、
この有様でしたが、本当にこれが普通と思っていました。
普通ではない・・と思うようになったのは
アレルギーが体に出るようになってからでした
中1の時、原因はわかりませんが なにかの拍子に 体に
虫にさされたようなふくらみが
ぶばばばばっとできたのです。
かゆくてかゆくて気が狂ったようにかきむしりました
何回もそんなことがありました。
蚊にさされたのではないことは確かでした。
で、何回目かに さすがに耐えかねて 医者へいきました
アレルギーだよ、注射うっとくからね
と、注射をうって暫くして かゆみがおさまったとほっとしたのもつかの間、
今度は 足の太ももの全ての毛穴が 
富士山の噴火のように 赤黒く 1センチほど盛り上がってしまったのです!
うっわーーー!!きもちわるっ!!何コレ!!??
たとえていうなら 健康器具のいぼいぼが太ももにくっついた・・という感じでしょうか~
椅子に座るのが痛かった~
次の日 あわてて医者へ行きました
あらーアレルギーをなくすはずが またアレルギー起こしちゃった~
強すぎたんだねー
多分 お医者さんも初めて見たんだと思います
そのくらい すごいものでした
蚊にさされたようなアレルギーは 1日我慢すれば治るので
もう 医者へかかるのはやめようと思いました~
なんとか ここ10年は出てないので 治ったと思います~
そして だんだん 年をとるに従い 出てきたのが食物アレルギーです
小学生の頃は ピーマンが駄目でした
においをかいだだけで もどしてしまいました
星家のように 食べるまで許さん!!と父母が頑張っていましたが
食べてすぐトイレへ行きもどして おなかが痛い~と
青い顔で寝込む私の姿を見て
そのスパルタ教育は終止符を打たれました。。
15年くらい前に アレルギーの本を読み 子どもの頃は胃腸が未発達の為、
だめな食べ物があることを知りました
大人になったら ピーマンは大丈夫になり、今では大好きなので
不思議だと思います~
今 だめな食べ物は ほしいちじく と きくらげ です
どっちもおいしく食べられるのです
でも、食べた後 どうも調子が悪いのです
きくらげは まだ 軽いほうで 半日 腹痛と吐き気だけですみます
だけど、ほしいちじくは どうも体質に合いません。。
一回目に食べた後 もどして 腹痛 頭痛 と1日寝込みました
そのときは ほしいちじくが原因と思わなかったのですが
二回目 食べた時 同じように 寝込み さすがに
ほしいちじくのアレルギーだ
と、自分でもわかりました。。。
もう二度と食べられません~
知人は エビをおいしく食べた後 エビアレルギーがでて
呼吸困難になり 救急車で病院へ運ばれ 
今度食べたら あぶないです とエビ断ちを宣告されたそうです~
大好物なのに 体が拒否するなんて かわいそうです~
食べ物には 感謝していただいてますが、
やはり、私は きっと 人より胃腸が弱いんだ
と、結論を出さざるを得ませんです~
おととい 気付きましたが 今度は どうやら
白米アレルギーのようです
適量ならいいみたいですが ある量をこすと
腹部膨満 内臓の消化機能低下になることがわかりました 自分判断で。。
本当は 小学生の頃から 気付いていたのですが
認めたくなかったのです だって 白米 大好きですからーー
玄米は 体に合わないのはわかっていました。。
さらに 白米です。。。おいうち。。。。
夕食に 白米を食べないようにしてみましたら
胃腸の調子がよくなってきました。。。くすん。。。。
これから 新米がおいしいのに
とても 残念です~
少量をよ~~く味わっていただきたいと思います。。。。
9月25日

実家の猫

昨日9月24日は 私の実家へ家族で行き 母のお墓参りをしてきました
実家の周辺には のら猫がたくさんいます
川があり、公園があるので のらちゃんたちには住みやすい場所なのでしょう
私が実家にいる頃から 派閥があるようですが けんかしながら 脈々と
代々がんばって生きているようです
中の一匹が なぜか 父母になついたので
父母は 避妊をして 適度に可愛がっています
母亡き後 現在 彼女は 父と弟に可愛がってもらっています
ところが 私等 宇都宮の家族には 少しも慣れません~
私等が 泊まりで行くと 警戒して逃げて 遠くから みゃおんみゃおん
わざとらしく泣いています (鳴)
えーーん あの変な人たちがいるから おうちに近づけないよ~
お父さ~ん 早く あの人たちを追い出して~え~ん!!
不思議と そう聞こえます いやみな猫です
昨日も 私達の顔を見て ダッシュで逃げようとしたので 次女がつかまえました
次女は
この間8月に 友達になったんだもん!!
と 威張ってますが 猫の態度を見る限り そう思っているのは
次女だけのようです。
写真を可愛く撮ってあげようと思ったのに こんな結果になってしまいました
決して いじめてるわけではありません~
なんでかなー いつも 実家へ遊びに行って ある程度慣れるはずなんですが
次回 遊びにいくと すっかり
また あいつらが来た!!
と いや~な顔を されてしまうのです。。。。
意識的に 仲良くなった記憶だけを 削除してるとしか思えません~
父のそばで 安心してる 猫の視界に 私の姿が目に入ったときの
猫のびっくり顔!
頼むから その リュークを初めて見た時のような顔をするのはやめてください
お願いします。。 割と 私も傷ついて落ち込むんですよ・・・
母亡き後 (母は4ヶ月入院して そのまま病院で亡くなりましたので
猫は 母と 4ヶ月会ってなかったわけですが)
私が 台所に立って家事をしていたら
猫が 私の足にすりすり 甘えてきました
・・・・母が死んだの わかって 今度は私に甘えるようになったのかしら・・
クスン・・・案外 いい猫じゃないの~くすん。。。
見事に 私の思い込みでした・・・・
私の声を聞き 顔を確認した途端
彼女は 体を固まらせ 目を見開き 
おめーかよー!!
と 家を飛び出していったのです。。。。
あまりの豹変ぶりに 温厚な私も はらわたがにえくりかえるようでした
それ以来 特に警戒されるようになってしまいました。。。
まあ そんな猫ですが 母亡き後 父のいい話相手となっておりますので
長生きしてほしいと思います
中々 顔は可愛いですー
ミックスっぽいです。
我輩は猫である状態です
名前がないので、私等が勝手に毎回違う名を付けて呼ぶので
彼女はそれも気に入らないのかも知れません~
我が家の彼岸花
私等を見て猛ダッシュで逃げる猫
自称友達の次女に抱っこされる猫
9月23日

希望バトン from 山高帽子さん

ちょー嬉しいですー!!山高帽子さんから バトン頂きました~!

バトン 憧れでした~答えるのたのしみで~す有難うございマース!感謝感激!!

長女が コピーして わたしのに貼り付けてくれたんですー

すごいですね~そういうことできるんですね~ ぱっそーってえらい!!

全部 デスノのライトがあてはまるんですが

実在の人物も対象に考えたいと 思いなおしてみました~

>>1.手を繋ぐなら

徳川家康 

>>2.抱きつくなら

東大寺の大仏様 

マチャミ  おっしゃー!と受け止めてくれそう!!

>>3.抱き殺すなら

・・・・・抱き枕

 毎晩 犬の抱き枕 締め上げてます

>>4.抱きつかれるなら

ワンピースのさんちゃん

ゲゲさ~ん って!!

 
>>5.恋人にするなら

光源氏の君

翼を持つ者 の あの黒髪の 元悪役・・大佐?

DJ おずま

>>6.ペットにするなら

ぴぐもん

>>7.結婚するなら

月並みですが

ソフトでやさしく ひとあたりもよく 空気がよめて 

自慢しなくても仕事が出来るのが全身から漂ってるお方

翼を持つ者 の らいもん・・・だめかー彼女いるもんにゃ~ことぶき

秋葉財閥の にーちゃん・・・だめかー つたこ いるもんにゃ~

 
>>8.浮気するなら

デスノのライトがいいけど 色々逆に探られて、それをまた私が探ってと

腹の探りあいで 会ってる時間を費やしてしまい とても恋愛どころではなく

疲れそうなので 松田でいいや 

>>9.両親にするなら

パー子さん夫婦

三船さんの娘さん夫婦 

お気楽そうな両親に びしびしつっこんでみたい 

>>10.兄、姉にするなら

兄 谷原章介さん(上様で)・・年齢があわないけど夢を見させてください~

姉 ヒルトン姉  あそこまでの人は中々居ないと思う マドンナでもいいな~ 
 
>>11.弟、妹にするなら

妹 ゆうこりん

弟 てにぷりの大石くん 

   イ・ジュンギくん  セブンくん

>>12.子供にするなら

今現在の長女と次女

あんな あほで ないすな子等はほかにいない

>>13.虐めるなら

字が読めません・・

エスエム的な意味でしょうか~

銀魂の 土方さん 

>>14.虐められるなら

字が読めませんてば・・・いじめる?

サド星からきた王子 沖田 

>>15.語るなら

ガクトさん!!とことん お酒つきあっちゃいます!!

>>16.甘えるなら

どらえもん!

>>17.甘やかすなら 

テニぷりの 手塚国光くん 

>>18.敵に回したくないのは

甲斐 武田 

>>19.デートするなら

デスノのエルとわたり氏 わたり氏がなんでも用意してくれそう~

てにぷりの 跡部けごたん ちょー金持ちだから 

松山ケンイチくん(Lのメークで)いや 素でもいいです~ 

>>20.旅行行くなら

イギリス 元ストーンズのブライアンのお墓参り行きたいな~ 

>>21.バトンを11人にまわしてね

どうぞ ご縁があって このスペースをごらんになった方がいらっしゃいましたら

どなたでもよろしかったら お持ちになってくださ~い!!

みづきさん

ありすさん

ひろぽんさん

ぶーすかさん

みんな お忙しそうだけど~よろしかったらよろしくで~す

質問が質問なので・・・素通りしていただいてもかまいませんです~

山高帽子さん ありがとうございました~

楽しかった出~巣!!またよろしくお願い申し上げマウス~

9月22日

昭和の思い出 中学校編 ビーパップな環境

昭和53年4月 中学校入学
   56年3月     卒業
昭和50年代の常として
ご他聞にもれず じゃっかん 学校は荒れていました
校舎の窓ガラスを割るとか悪質なことはなかったですが
つっぱり が多く 自分勝手に悪いことをしていましたね~
もちろん 真面目な生徒もたくさんいました
私も勉学に励む いたいけな少女?でしたが、
月に一人は どこかのクラスから つっぱりの仲間入りを
表立ってするという 環境でした~
あまり目立たない生徒が そういう道にはいるんですよね
大人しかった子が 急に 自信溢れる顔つきになり(目が鋭くなり) 
服装が変わってくるので すぐわかりました
女子は まゆげを細くし 髪はショートカット
えりの小さなワイシャツのボタンを上まで全部閉めて
制服の上着の丈を短くして スカートは長く くつしたは短く
背筋を伸ばして 胸をつきだし
うわばきのかかとをつぶして歩き出すのです
男子も まゆげは細く 髪を立て コロンをつけ、  
短ラン または 長ラン
ワイシャツの下には 赤のTシャツをのぞかせ
ズボンはぼんたん または 思いっきりスリム
同じく 背筋を伸ばし 胸をはって
うわばきのかかとをつぶして歩き出すのです。。
中一のとき 友人に 
あの子たち 変なかっこ し始めたね
と聞いたら つっぱりのファッションだよ
と教えてくれました。
ファッションだけの みかけつっぱりももちろんいました
予備軍ですね~
友人Aの友人Bが どんどん そういう道に進んでいくのを
友人Aから 逐一 聞き
なるほど~ 人はそういう風にどんどん悪くなっていくんだ~
と、そのすさまじい過程を知りました。。。。
結局 友人Bも 高校生になって そういう道に進んでしまいました。。
まさしく 類は友を呼ぶ です。。。。。悲しいです。。。。
私の 友人C も どういうわけか 族の年上のおにいさんがたとお知り合いに
なってしまって 学校ではおとなしいのですが
裏では とんでもないことをするようになってしまいました
最初は 興味本位で面白おかしく 話を聞いていた私ですが
そのうち まじ 
こいつ やばし!!
と 怖くなり、つきあいをやめました。。。
我が家の隣りの家の年上のお兄さんも
その道に進み、両親が仕事でいないすきに
友達が ひっきりなしに出たりはいったりと
すごいものでした。。
近所にいて 小さい頃遊んだ 年下の可愛かった男の子も
両親がいい家をたてて引越して なぜかその道に進んでしまいました。。。
お母さんが 家にいるにもかかわらず
そういう友人達が男女10人以上 毎日 その子の部屋へ遊びに来て
部屋を締め切りにして 何かしてるという たまり場になったそうです
スーパーで 私の母に会った その子のお母さんがこぼしていたそうです。。。
一番 悲しかったのが 中一の時 仲のよかった口げんか相手の男の子が
不良の仲間入りをした時です。。
私のいた一年一組は 一学年一 無邪気で明るく笑い声が絶えないクラスでした
他のクラスは 二学期頃から つっぱりが出始めたのですが
一組だけは違い、つっぱりなど一人もいなくて 男女仲良く口げんかして大笑いする
ユニークな御馬鹿クラスでした
そんな中 私とY君とは いつも楽しく口げんかをしてました
Y君は 釣りとサッカーが大好きな素朴な少年で
担任の先生とも 休日はよく 川へ釣りに行っていたようです
そんなY君でしたが 中二の終わり頃から なんだか眼つきが鋭くなって
服装もおかしくなり始めました
クラス替えで 一年一組は ばらばらになり
Y君とも 離れ離れになりましたが 
廊下ですれ違えば 相変わらず お互い容姿をけなしあっていたのです
ところが その容姿も けなせないくらいのつっぱりファッションへ
彼は変貌をとげてしまいました
噂で Y君 あぶないよ・・と、聞いていましたが 見ていない私は
信じられませんでした
でも ある日 廊下で 間近に Y君とすれ違って、
噂どおりのあまりの変わりようにびっくりしてしまいました。。
彼は、  どうだい かっこいいだろう みたいな感じでした。。
今までの私なら 気楽に 
そんなかっこ似合わないよ~とでも軽口をたたけたでしょう。。
だけど まじでひいてしまった私は  どうしても声が出なかったのです。。
私の表情に 多分  驚きと落胆をみてとったのでしょう・・
私の顔を ちらっと見たY君はそのまま 無言で走っていきました。。。
それ以来 二度と 二人で話すことはなくなりました。。。
素朴で明るかったY君は いなくなってしまったのです。。
なんで 不良の仲間入りなんか しちゃったんだろう。。。。
私の友人は
Y君て なんか 純朴すぎて チョッとみんなに馬鹿にされてたとこあったでしょう~
だからさー その コンプレックスっていうか 反動で
不良の仲間入りしちゃったんじゃないの~
と分析していましたが、本当に悲しかったです~~
もともと 顔もよく スタイルもよしで すぐ不良仲間の女の子と
付き合いだしたようですが、
私は  それを人から聞き、
そんなの本当のY君じゃない!!と、信じられませんでした。。。
もう 28年前のことですから なつかしい やんちゃ話ですが
子等の中学生活を見て 非行に走るこどもたちの話を聞くにつけ
変わってないなーと 思います。。。
誠に 残念な話です。。。
私の持論で 授業についていけないと 素行がおかしくなると思います
そして 一人で遊べない子も あぶないです
だけど 話をすると みんな 人懐っこくて かわいいんですよねー
寂しさの裏返しだとも 思いますが
一度 その道に入ると どんどん転落していくのが怖いのです。。
私の中学の男の先輩で 背が高く ちょーちょーかっこいい人がいました
まじめにやってれば モデルにでもなれるくらいのすてきな人でしたが
噂で 10代の頃 シンナーで 脳に異常をきたした と聞きました。。
うそかほんとか わかりませんが つらいお話です。。。
栃木県は 高校生のくすり 堕胎率など 全国で上位にはいっているらしいです
ほんとに 周りで 友人が堕ちていくのを 何もできず悔しい思いをしてる人たちが
いることを 思って 非行の道へは入って欲しくないと思います。。
中学で つっぱっていた同級生や先輩方が その後どうしたかわかりませんが
みな 心も大人になって 元気でまじめにやっていてくれたらと思います。。。。
9月21日

誰の声???

昨日の夜 私は 9時に床に就き、いつものように
布団の上にねっころがって 
永遠に終わらない純愛感動ロマン堕落的前向き台詞小説
の続きをぼーっと、考えるともなしに考えていました
そのとき 何かを思って自分に どう?この展開と 脳の中で
問い掛けましたら
左隣から 次女の声で
○○○だよ!!
と、声がしたんです。。
で、私は
あーーそう~ ○○○なんだーー
と つっこんだ後、
・・・・・!!
えっ!! あんたいないじゃん!! なに?今のなに?
次女は そのとき 一階で カラオケの番組を長女と見ていました
私の左隣は 誰もいないのです。
私は しっかり起きていました 夢うつつではなかったです
一階からとか 窓の外からでの声ではありませんでした
○○○の部分は、残念ながら思い出せません
実は 私は 今日のお昼 何を食べたかも思い出せない 
過ぎたことはあーー終わった終わった よし!忘却!派なので、
どうしても逆立ちしても思い出せません。残念!!
さっき 次女に聞いたところ どうやら その返事した時間
彼女は テレビを見ながら うたたねをしていたようなのです
長女に らぶかつ見ないの?と、聞かれ、
見ない! と、答えたらしいことが判明致しました。。。
おそらく 次女は 自分でも知らずに 魂を飛ばして 私の隣にきたようです~
次女本人が 一番怖がってました。。。
私に聞かれたと勘違いし 見ないよ!と 言った声が私の左耳に 
届いたのでしょうか。。。
次女が3歳の頃 ちょっと似たようなことがあったんです~
夜 二人で部屋で寝ていた時
私は 次女と行動を共にしている夢をみました。。
そして 次女が危ない目にあっているとき
たすけなきゃ!!と
はた!と目が覚めたのです!
あーー夢だったんだー 夢でよかった~
ほっと安心して、そばに寝ている次女をふと見ました
!!なんと 次女がうなされているではありませんか~
んーんー と 何か 逃げたいけど逃げられない!というような
苦しみ方でした。。
はっ!!まさか!!次女も同じ夢を。。。。
恐る恐る言ってみました。。。。。
だいじょうぶだよ!ママが助けたからね!もう危なくないよ!!
すると、次女は にっと目をとじたままわらって そのまま
すーっと 熟睡をはじめたのです。。。。
うわーーきっと 同じ夢を見てたんだョ~こわーー!!
数日前も次女は 朝7時半に 長女を 長女の夢の中で起こしたそうです 
安心した長女は寝過ごし 
はっ夢だった やばっ!!
高校にぎりぎり遅刻!という 危険な騒ぎにまで発展してしまいました
おそるべし!!次女!!夢の中へ自由自在に入れる特技を持つ人間!
9月20日

ブログ開設 その七

こうして 一連の騒ぎの後 曲まで提示していただき 
大伯皇女に親しみを持った私です
その後 今度は ブログを是非開設してほしいという
ご要望を 感じ取ったので
ブログを開設させていただいた次第でございます
長女がすでに ブログをやっておりましたので
私も 教わりながら なんとか開設することが出来ました。
里中満智子氏の漫画 天上の虹 は
大伯皇女が 同母弟の大津に 密かに恋をしていた設定ですが
個人的に 私は そう思いませんです
漫画的には とてもグッド!だと思います
この時代 長男が家を継いでいきますから
大伯は むしろ 大津に しっかり母系の血を大事にしてほしい
という思いでいっぱいだったのではないかと思うのです
父の大海人の後をついで たとえ 帝になったとしても
叔母の持統もいる中 大変な苦労をするのは
誰の目にも明らかです。
弟への恋心よりも むしろ弟の生死が心配だった気がします
大伯は 誰かに恋をしていたのでしょうか~
先日 ふと 私の愛用ののどスプレーを見てみましたら
製造元の住所が 奈良県高市郡と なってました
それを見て つい 
お兄さま 
と言ってる自分に気付き、
もしかして 大伯皇女の好きだった相手は 高市皇子だったのかなー
と思ってしまいましたよ。。。
今は もう 鉄塔を見ても ふたこぶ山を見ても
あまり何も感じません
♪粉雪を ふいに耳にすると 鳥肌はたちます
よく 思うのですが 
古代に 皇族に生まれた方というのは
どれだけのすごい宿命を背負っていたのか~と、
その重さに 同情してしまいます。
華やかな 美しい世界とおもいきや、
昔は 身分制度があり 油断すれば命をねらわれる。。
女性は 政治の道具 天皇の妻に子どもが生まれれば
次の天皇を継ぐための 家臣団の腹の探りあい。。
などなど 下手をしたら 命がなくなる 中での
政治合戦です
今の私達とは比べ物にならないくらいの シビアな世界です
大伯皇女も こういうつらさをわかってほしくて
わたしに 少しの間 くっついていたのかなー
と、勝手に思っています。。。
薄い雲ですが 鉄塔の上を 龍が空へ飛んでいくような形でした 
9月19日

敬老の日

以前は 敬老の日は 9月15日でしたが 月曜日に変わりました
今年 平成18年は9月18日です
まだ慣れません~
9月15日のイメージがつきまといます
でも 3連休になるのは いいことだと思います
大学の時の 月曜日の一般講義のある先生は
月曜日の授業が休みになるなんて けしからん話です!!
と、怒っていたものです。。
学生の私等は 大歓迎してました。。。
私の祖父母は4人とも皆 逝去してしまいました
私が18才から35歳の間に 次々と旅立っていきました
18の時 父方の祖父
22の時 父方の祖母
32の時 母方の祖父
35の時 母方の祖母  悲しかったです~~
父も母も4番目の子だったので、同年代の友人よりは
祖父母が年をとっていたかも知れません~
私が小学校の時は 遠く県外のふるさとへ 遊びに行く同級生が羨ましかったです
父方の実家へは 自転車で10分
母方の実家へは 車で30分で行ける近いところでした
でも 今思うに 近かったからこそ ちょくちょく遊びに行けて
祖父母や伯父伯母 いとこたちと たくさん会えて遊んで、という
ぜいたくな時間をもてたものかも知れません 
元気で働き者だった祖父母達が だんだん弱くなり 物忘れがひどく
病気になっていくのも 見てきました
私の名前も忘れてしまうのも とても つらいことでしたが、
人は こうして老いていくんだ
と、いうことも教えられ、お年寄りへやさしい気持ちが持てるように
なったと思います。
若い頃
ゲゲだよー!孫だってば!おばあちゃんはー!!忘れないでよー!!
なんて きつく言ったりしたりして ごめんなさい。。。
父方の祖母は ばりばりの農家の主婦でした
男4人を育て上げた ものすごくたくましい強い人でした。。
そんな強い祖母が 晩年は
女の子が欲しかった・・・
と言って 親戚相手に泣いてた。。と 母から聞き私は絶句しました~
明治生まれの人なら 男の子を生んで やれやれ お家安泰 と
思っているのではないかと 勝手に私は考えていたので
祖母が 女の子を産みたがっていたなんて。。。
ひどく驚きましたよー
自分の息子には言えない愚痴とかを 娘に言いたかったのでしょうか・・
強いひとだと思ってたけど、息子たちや嫁たちを前に つくっていた部分も
あったのかな~
私が子どもの頃の昭和40年代は まだまだ田舎でした
父方の家は 昭和34年に わらぶき屋根の築200年の家を
壊して 今の家を建てたそうです
昭和34年は1959年 マイナス200=1759年!!!
江戸時代!!
すごーいい!!見たかったーー
土方さんの実家の頃の家だーー
でも 大体 想像はつきます
私がこどもの頃 まだ わらぶき屋根の農家の家はたくさんありました
写真もありますし 作り変えた実家も 間取りは 多分 江戸の家と同じだと思います
馬を飼えそうな部屋はありますし、台所は土間で、かまどがあります
玄関もコンクリートですが広い土間になって、そのまま台所へとつながっています
家は次々瓦屋根に変わっていきましたが
昭和40年代は 実家の辺りは まだまだ 江戸時代と変わらない景色だったと
私は 思ってますー
ですから 多摩が育てた新選組に共感を覚えるのかも知れません~
土方さんたちも 農家のこういう風景を見て暮らしたんだろうなー
と、幼い頃の実家のことを思い浮かべると
自然と 気持ちは 新選組へとつながっていきまうす~
9月18日

宇都宮の街へお買い物

昨日9月17日 久しぶりに 街中へお買い物に行きました
いつもなら 郊外の大型店へ車で行きますが、
長女の学校指定の通学靴が 街中でしか手に入らないため
夫に送迎をしてもらい 長女と行ってきました
街中は 我が家から自転車で 10分の距離です
行く気になればいくらでも行けるのですが
どうも 近いと 中々、いつでも行けると思い 安心して行かないのです
アーケード街のオリオン通りへ行きました
最初 本日のメイン  タナカ靴店本店
この靴屋さんへ行く時
二荒神社の 親王誕生祝い神輿に出会えました
先頭は 天狗?らしきお面をかぶった方です
神社の主祭神の豊城入彦の命・・・?
いやいや豊城の命は天狗様ではないですよねー皇室のご祖先です。。
みこしの頭の鳳凰は 
新米でしょうか 
白紙につつまれた稲穂を口にくわえていました
奉祝・悠仁親王殿下御誕生
もしかして 男児がお生まれになると いにしえも
こうしてお神輿が練り歩いたのでしょうか~ロマン~
次は ふらりと落合書店
そして 本日のサブメイン!アニメイト宇都宮店!!
いやー 久しぶりー 嬉しかった~ 
銀魂グッズ 揃ってましたねー
ポスターもたっくさん かっこいいのが貼ってあって素敵でした~
会員カードも変わるそうなので 新しく更新しました
今度は1ポイント一点だそうで 景品も交換しやすくなるとのことです。
本日の購入品
BLEACH   一護のバッグ 一護がかっこいい!!       525円
         檜佐木さんのクリアうちわ  修兵 さいこー! 470円
義経記     うるわしいイラスト下敷き               262円      
NARUTO    四代目とカカシ先生の下敷き            262円
銀魂      真選組のドアプレート                525円
         沖田のメタルステッカー 次女にお土産     189円     
                                    計2233円
買ってもいつも使えずに 部屋に大事にとっといてあります
今回のも とても もったいなくて使えません!!
店内を 一時間以上は 行ったり来たりしたでしょうか~
全部 すてきで 買うのに迷ってしまいました~
同じビルの下の階に まんだらけ がオープンしたそうなので
長女に案内され 行ってきました
おーーー!!!
すすごい!!!
テレビで見たとおりだ===
同人誌がびっしり 棚に詰まってるーーー
そうかーだから 腐女子達が座り込んで
好みの本をさがしまくってるわけだ~~
アニメイトですっかり疲れてしまったので
探す力もなく 銀チャン 真選組の衣裳(12800円くらい)を見て
店を後にしました
今度は 元気な時に来てさがそうっと!!
長崎屋へ行き 北関東最大級の喜久屋書店を堪能し、
長女が 土曜日買い忘れたジャンプを買って、
(ラスト一冊だったそうです)
夫と合流、食品を買って帰りました~
宇都宮の街も活性化を目指し 色々建設したり、
城跡も 城を復元中です
もっともっと、賑やかになればいいと思います
いやーたまに歩く街の中は 楽しいですねー
郊外店にはない魅力かも~
かっこいい男の子たちや、かわいいわんちゃんたちもお散歩してたりして
目の保養をさせていただきました。。。
交差点の信号待ちで 高校生の男子グループ、女子グループが
横断歩道をはさんで お互いをちら見してるのも
すごく 可愛くて ほほえましかったです~
一護のバッグ と 檜佐木さんのうちわ
9月17日

中国旅行 万里の長城

去年平成17年 春の中国旅行、大目玉 万里の長城 行ってきました!
高い!長い!大きい!広い!固い! しっかり作ってある!
いやー全部がすごくて、感激でした!!!
眺めもすばらしく 空がぬけるように綺麗な日でした~
ガイドさんがいない日で ツアコンの劉さんが案内してくれました
登り口に立って 右を指し
大体 ここから3つ目の砦くらいのとこまで 時間内でいけます
男性で 歩ける人は 左側 挑戦するといいですよ
右へ行くより 勾配がきついです。
と、教えてくれましたが、下から見上げると どちらも登るの簡単そうなんですよ。
右側は 3つ目の砦なんて言わずに5つ目くらいまで行ける と思いました。
そして 解散して 家族で登りはじめたのですが・・・・
最初は 
あーー景色もきれいーー軽い山登りって感じで運動になっていいわねー
と、写真を撮ったり、喋ったり、余裕で歩けたのです。。。
でも 登るにつれ、勾配は容赦なく きつくなり、
子ども等、弟、父に抜かされ 私は ヒーひー言いながら
上がっていきました
足があがりません・・・
3つ目の砦にやっとの思いで到着です。。。。
だめだ 5つ目なんて とても無理。。。
でも そこから見た景色は 遠くまで見渡せ 
さすが!中国は広い!!
と いつまでも見ていたいような 美しい大陸の眺めでした
敵の民族が攻めてくる恐怖にかられて
万里の長城はつくられたようですが
この景色を見た限り、そうだろなー北から攻められたら
おしまいだなーと、想像できました。
左側の 万里の長城を見ましたが やはり 勾配がきつそうでした
工事をしてますので 左は 登るのは途中までです。
降りるときは 楽でしたが あまりの急な坂で怖かった~
時間的に 観光客があふれてきて 人をよけながら降りていきました
劉さんが教えてくれましたが
万里の長城は 夜 幽霊がでるんだそうです
近所の人たちが言ってるそうです~
昔 奴隷達に この長城を作らせ 奴隷が死ぬと
下へ落としたそうなんですよ~ひえー ひどいー
だから 近所の人は怖がって 夜は 近づかないそうです~
万里の長城から 町へもどる一本道に 小さな集落があります
劉さんが 
ここの人たちは 多分 中国一お金持ちです
見たところ 田んぼもない 畑もない 
あるのは 万里の長城だけ 
会社も無いし 町からも遠くはなれている
さてどうやって生活してるのでしょう
と質問をだしました。。。
砂ぼこりの舞う 草ぼうぼうの荒れた土地に住んでる人たち
なぜ 金持ち?
答えは 石でした
いい石が出るんだそうです
そこで その石を売って大金を得ているんだそうです。
いいでしょう~石売るだけで 生活していけるんですョ~
羨ましいですよね~
笑いながら教えてくれた劉さんでした。
今は 工事も進み 去年よりはるかにきれいになったことでしょう
万里の長城にそって、カートに乗れば勝手に走ってくれるという乗り物。。
ジェットコースターのおとなしいものを作ってました もう出来たでしょうか~
あれは楽しそうでしたよー
9月16日

土方さん

わたくしの尊敬する方は 幕末の 新選組副長 土方歳三さまです。
天保6年5月 5日(新暦1835年5月31日) 武州多摩郡石田村出生
明治2年5月11日(新暦1869年6月20日) 函館にて戦闘中 敵弾を受け即死 35歳
今週号(9月11日発売)のジャンプの 銀魂 は
なんだかしんみり悲しいお話でした・・・
多分 沖田が 史実上 労咳のため27歳で早世する代わりに 
彼女が 漫画で 亡くなったのではないかと思って読みました~
彼女は 実際 長生きしましたから~
今 ふと思い出しましたが 実物のミツさんの老後の写真 
マザー・テレサ氏 にソックリ!
ずーーっと長い間20年間 誰かに似てるー似てるーと考えていたんです~
よかったー! やっと判明しました~ 
銀魂では 土方さんが彼女に惚れてた設定で
私は うちひしがれてしまいました・・・  
やっぱり、土方さんは 恋愛より将軍様への忠誠です!
そうであって欲しい!!
銀魂の作者 空知先生は 土方さんの大ファンだそうで、
崩して描けないとおっしゃってました 
とても わかります。
普通に描くのもつらいのではないでしょうか~
私も 学生の頃 土方さんを主人公にして漫画を描こうとして、
・・・挫折しました。。。。
なんだか 描けないんです・・・絵ももちろんですが
ストーリー何を考えても うそくさいから駄目 まじめすぎるから駄目
かっこよくないから駄目 かっこよすぎるから駄目 
相手の女性は思いつかないし 史実もいじれないし 
何を考えても、 こんなん 土方さんのストーリーじゃない!!
と、自分で否定してしまうのです。。。
・・・・結局 尊敬する人を主人公にしてしまうと
自分の思い入れが深すぎて 全然 うまくまとまらないんですよね~
今はやりのアンソロ的なら描けたかな・・・いや やっぱり 描けないですね~
ガクトさんも 歌を歌う時のことを以前おっしゃってましたが
自分の気持ちに合った歌でも 自分の気持ちを込めて歌うとうまく歌えない。
変に 気持ちが入りすぎて 声がよく出ない。
作品の主人公の気持ちになって歌うと よく歌える
だそうなんです。
歌でもそうなんだから 漫画でも
登場人物に 深い愛情がありすぎると 駄目なのですね~きっと~。
なんだか 文章も 上手く入力できません
色々 あれも書きたい これも書きたいで 全然まとまりませんです。
尊敬する方のことを書くのは 難しいですね~。
参考 写真集新選組始末記  釣 洋一編  新人物往来社 
    昭和56年11月15日 第一刷
写真 函館五稜郭 土方さんの銅像 平成17年8月撮影
 
9月15日

夢の分析

先月 8月24日明け方、久しぶりに、割とストーリー性のある夢をみましたので
分析してみます~。気になる夢は 不思議と忘れません~。
きっと 自分の人生に役だつメッセージを持っているはずと思ってます。
ガクトさんと待ち合わせて、私の車で出発。
少し行ったところで、私のパソコンの線のつなぎ具合が悪く、
車を止めて、私のパッソーのコードを直します。
その間、ガクトさんは外に出て煙草を吸っています。
パッソーのつなぎも直ったのでまた出発して、
ちょっと、広場に車を止めました。そして、私が降りたら、車体の向きがいつの間にか
変わって、座席だけが、元の進行方向に向かっていました。
中にいるガクトさんは、元の進行方向に向かって座っていて、車体の向きが変わったことに
気付いていません。私が外から、
変わっちゃったよー!進行方向 反対になったよー!
あーーちょっと、むかついてるーー!(笑)
ほんとに負けず嫌いなんだからーー(笑)
ガクトさんも、苦笑しつつ、車を降り 新しい方行の座席の助手席に座りなおします。
私は外に出ていましたら、そこはちょうど旅行帰りの小学生達の解散場所だったらしく、
あッと言う間にものすごい数の小学生と、その保護者で一杯になってしまいました。
車は動かせません。
そして、まずいことに、保護者の中に知ってる人が4人いて、
あーーゲゲちゃんーー
ねーー、立ちっ放しで疲れたから、車座らせてよーーー
いーーよねーー
と、私の車に、一人は運転席、3人は後部座席に、乗り込みました。
やばーーガクトさん、乗ってるのにーーーー
案の定 あーー!ガクトさんーー!!
と、見つかってしまいました。
騒ぐ知人達と反対に 目を隠し うなだれるガクトさん
あ~あ~
ふと見ると そこに立派なキンキラ輝くお堂のような建物が建っています
ガイドのお姉さんが案内してくれました
これは 武田信玄が 謙信に対抗して 呪詛のために建てた4の間取りのお堂です
4・・つまり 死を意味しています
私は その中で そうなんだー と感心しています
ここで目覚めました。
できる範囲で分析を開始します。
ガクトさんとドライブーー??うっそ  マジ?
きゃーー!!ラッキー!!
とは分析しません。
ガクトさんは 自分にとって、何を表しているのだろう~
なんの象徴なんだろう~と、考えます。
普段の私が隠してる部分 として 思いつきました。
シャイ ちょっと天然 不思議な人
わがまま 負けず嫌い きれたら怖い
おこりんぼ 思ったら実行
きれいな人大好き
個性的な歌を歌う 個性的なファッションなどなどです。
自分からみたガクトさんのイメージですが
よく考えると 自分にもあてはまります。
でも、社会生活上 人には 見せられない部分です。
これらの部分を 前面に出して生活していたら
間違いなく 世間ではやっていけません~
普段は 隠さないと 不特定多数の方々とはお付き合いできないです
つまり この夢は 
現実的な私の中の ガクトさん的な部分を
抑圧しすぎているのではないか?
現実の私に警告している と受け取ってみました。
私が夢の中でパッソーを直している間 彼はリラックスして外に出てました。
好きな事をしてると、隠れた部分も喜ぶのでしょう。
広場でいきなり進行方向が変わったとき 彼は気付かず むっとしていました
現実の中で 自分では反対意見なのに、表立って反対するのもめんどくさく、
話の流れで 皆の意見にてきとーに同意して話を合わせ
その場を流すことへの忠告かも知れまへん・・
表面の私は別に何も感じませんが 心は相当深く傷ついてる・・
抑えた部分のストレスに気付きなさいと。。
車に 知人が乗り込むというのは
私が、自分の心の中に 母としての役割や世間の仕事を持ち込みすぎる・・
ということに 思えます。
車の操縦を握る運転席に一人が乗り込むというのは、
よっぽど 私の心の操縦が 外部の仕事中心になってるかです
助手席のガクトさんが 目を隠しうつむくのは 私の隠している部分が
やめてくれ と訴えていることの現われかも。。。。
心に誰も入れないで 自由でいさせてということかなー。。。
最後は 人に対抗して建てた死のお堂~
作った信玄は 史実上 謙信より先に死んでます
謙信は来年 大河で ガクトさんが演じる役です
このまま  私は 自分の心の中を隠してそれに対抗しつつ
生きていたら 最後は死。。。
しかも 心より先に肉体が死ぬということかもしれません・・・・こわっ!
もっと自由に生きればよかった って後悔して亡くなるということか~し~ら~
4人の知人も 私の外の役目の部分でしょう。
1.43才という 社会の中堅的立場の自分(模範的に行動せねば))
2.会社の一員としての自分(利益をあげねば)
3.地域社会の一員としての自分(うまくつきあわねば)
4.子の学校の母親としての自分(保護者としてきちんとしなければ)
まだまだ 深く掘り下げると 
広場 小学生の大群 お堂のキンキラの意味 など
メッセージを持って出てくると 思います
今は まだ ひらめかないので 時期が来たら思いつくのでしょう~
実際 この8月の終わり頃 確かに 疲れていましたー
風邪っぽくて 家でのんびりゆっくりしたかったのを覚えています
一日中 家でまったり パッソーで 歴史的なことを気ままに調べられたら
どんなにいいだろうと、思ってました~
この夢療法は 自分一人で自分の心に照らしあわせて行えるので
とても便利です。どこが悪いのか どんなメッセージをもらえるか等など 
ノートに書きながら 楽しんで出来ます。
気になる夢を見ると いつも こうして 紐解いてます。
参考 やさしさの夢療法 原田広美 日本教文社
9月14日

ローリング・ストーンズ コンサート in JAPAN

ストーンズの来日コンサートは第1回から第3回まで行ったように記憶してます
第2回目コンサートは 東京ドームへ 友人と行ってきました
第1回目は1989年 2回目は1993?ぐらいでしたでしょうか・・
二人とも 幼い子どもを親族に預けての観演です
私の弟がチケットを取ってくれて
アリーナ席 前から8番目くらいでした。
アリーナは確かにステージ前で メンバーを肉迫で見れて良いのですが、
背の高さで 首の痛みが決まるという・・
身長158センチの私達にとっては、ややつらい場所でもありました。
メンバーが登場し 即 観客 総立ち!!
エーーー! もう 立つの??
と思いましたが 回りが立てば 自分等も立たざるを得ません
立つと 友人が
あの人たち ずるい・・・・
と 前方を見て ぼそっと言いました
見ると 2列 右斜め前の女性陣2,3人が どう持ち込んだのか 
高さ15センチ位の踏み台?箱?をもってきていました。。
うわーー・・その手できたーー??
やられたーーー
まあーなんとか 隙間から コンサートは楽しむことができました
ストーンズもサイコーでしたが、周りの観客達もとてもユニークで
面白かったです。
私の右隣の 28歳くらいのお兄さん
みんなが のりのりで 手を振り 首を振り うたいまくっているのに
全然 動きません。。。
ただ ひたすら 前方を見るのみです。
この人 楽しんでるのかなーと 不思議に思うほどの冷静ぶりでした
ミックが聴衆をあおり 観客達もどんどん熱狂していきます
ぴょンぴょン 飛びはねる人たちも出てきた 最高潮の時!
私の右くんも ようやく 動き始めました!!
足で リズムをとりはじめたんです!
ふつーは 手か首じゃないのー。。 でも
首と手は一切動かさず 足を 思いっきり もう我慢できないっという風に
激しく動かし始めたのです!!
ところが!
ななんと 左足だったために 私の右足を 見事に踏んでしまったのです !!
はっ・・・ 動揺する彼・・・・
足を動かすのをやめてしまいました 
そして また 直立不動 に 戻ってしまいました
でも またまた 観客ステージ一体となって のりに乗ってきた時!
これはもう我慢できないだろうー
さー右くん!
どうするんだー!! どこを動かすんだーー!!
私は ステージそっちのけで 彼を横目に観察しておりました
次に彼のとった行動は。。。!!
指でした・・・
手の指で リズムをとり始めたんです
腕は動かさず 手の先の指で 控えめにのっていました
ププっ!!
思いっきり 全身で のればいいのにーー
きっと ものすごく シャイな人なんだ・・・お若いのに・・
そのまま最後まで 彼は 指のみで のりまくり
ステージ終了後は 何事もなかったかのように 帰っていきました。。
すごい 人でした。。
友人の 左となりは 50代の 男女でした
多くの人たちが 皮ジャンや それっぽい服装でいる中
ちょっと 場違いな 雰囲気の スーツ姿でした
ほんとに ストーンズのこと 好きなのかな~
ファンには見えないな~ 悪いけど。。。
なんだか 二人で にこにこしていて
私達のように ステージのメンバーに食いつきそうなハングリーさは
その二人からは 感じられませんでした。。
コンサートが始まり その人たちも 見てたようですが
始まって30分くらいで いなくなってしまいました。。。
えーー これからなのに~
何やってんの~??
もったいないーー
友人が ぼそっと
不倫だな きっと。。。。
と言いました。
そうね・・どうみても 夫婦の雰囲気ではなかったわ。。
さては。。 ストーンズコンサートを アリバイにつかったのね
30分で消えたということは
後2時間は 二人で過ごせるという計算・・・
いやー 盛り上がって 汗かいちゃったー
って言いながら 帰宅するのかしら。。。
いやーーー!!
大人って 不潔ーーー!!なんの汗よーーーー!!!
(マカロニほうれん荘のきんどーさん?風に)
最後 ステージのスクリーンに のりのりで盛り上がってるアリーナ席の
観客達の様子が次々と大きく映し出されました
その中で 上半身裸で ぴょンぴょンはねまくり いっちゃってる
パンク風の20代前半の男の子の様子が映ると
ミックが
嬉しそうに 笑って
hahaha...... Crazy!!
といったので 私達も大爆笑でした
天下のミックに クレィズィ・・・!!
なんて 言われるなんて ものすごいことですよ!!
今年のストーンズコンサートは なんだかんだ行けなくって残念でした
また行って 歌いまくりたいです。。
今日は宇都宮はとても寒いので
あの燃えに萌えたストーンズのコンサートを思い出し
熱くなって 1日がんばろうと思います
9月13日

ブログ開設 その六

一連の騒ぎは もしかして 大伯(大来)皇女かと 思い始めた私です。
神社の参道は、伊勢神宮の斎宮だったなごりでしょうか
鉄塔・二上山を見て慰めにしてるのは 弟の墓だからでしょうか
私との接点は どこなのでしょう~
16年3月に 父と子等と 1月に逝去した母を偲ぶ京都・奈良ツアーに行きました
そのとき ちょろっと飛鳥を通りました
平城京のそばも通りましたが 寄りませんでした
吉野の桜は バスを降りて堪能しましたが 吉野はどちらかといえば
天武・持統天皇のほうが関わり合いがあるでしょう。。。
その旅行以外の接点は、日にちつながり位です。
大伯皇女は 701年12月27日 亡くなったそうです(続日本紀)
12月27日は 私の誕生日です
旧暦、新暦の違いはありますが 偶然 同じ日でした。
そして 母を喪った私の気持ちと 弟を亡くした大伯の気持ちが
時を超えて シンクロしたのでしょうか~
17年12月 私は 万葉集解読のあいまに コタツでうたたねをしておりました
日曜日の昼間 テレビからは MTVのベスト100が 流れていました
流行の歌の数々を聞きながら 寝てましたら
一曲 すごく 感情移入して聞き入ってる自分に気付きました。
でも、はっきり言って その歌は私としては興味が無い歌なのです (ガクトさんの歌 命)
なのに、心というか 頭の後ろというか 私の体を通してその曲にすごく共感して
聞いている何かが存在してるんです~
歌詞の部分部分で 心をうたれるらしくて その度に 私の体中 鳥肌が立つんです~
レミオロメンの 粉雪 でした
心まで白く染められたら
二人の孤独を分け合うことができたのかい
君のこと守り続けたい
永遠を前にあまりにもろく
・・・・・しみになってゆくよ
粉雪 ねえ 心まで白く染められたなら
二人の孤独を包んで空に返すから
これらの部分が 鳥肌がたつんです 今でもたちます
確かにいい歌詞だとは思いますが 私的には 鳥肌が立つほどではないのです
なんとも 不思議です~
おそらく 皇女の気持ちなのでしょうか~
母に死なれた自分達兄弟の 心の奥底に隠した孤独
弟を守れなかった自分
そして 弟の謀反の知らせを受け 斎宮職を解かれ 都へ帰るとき
冬ですから もしかして 粉雪が 舞っていたのかもしれません
なんだか ひしひし伝わってきます
彼女の 無念とやるせなさが。。。。
玲子さんは ほん怖で 大津陵を霊視して
藤原京の西の守りになってる とおっしゃってました
大来さんも 長年斎宮を務めた身ですから、弟が 
そういうことにつかわれている とわかったのではないでしょうか
そして 今でも 心配しているのではないかと思うのです~
大伯の名前ですが 私は 最初 大伯 と名づけられたと思います
皇族あげて西へ移動の途中 生まれてますから その命名です。
そして 弟の謀反の後 都へ戻り 持統天皇に謁見した時
帰って来たのね。
弟が罪を犯したので、あなたも もとの名では生活しにくいでしょう。
帰って来たの 来 をとって これからは 大来 と名乗るように。
と言われたように 感じるんですー。
名前を変えさせることができるのは 天皇しかいません。きっと。
続日本紀で、大伯内親王の死を記してありますが、この続日本紀を書く時は
大伯も許されて 本来の 大伯をつかえたのではないかと
勝手に想像してます。。。
結婚もせず、叔母の持統天皇より前に亡くなった大伯皇女。
きっと、控えめに、祖父母、父母、
そして 誰にも悟られないよう 弟の菩提を弔いながら(公に見つかったら 罪です)
ひっそりと生活していたと、私は想像いたします。
多分、サイキック能力を持ち、なおかつ 才能溢れる、漢字にも詳しい女性だったのだと
私は思っています。
だから、遠い伊勢へ行かされ、政治的に立場の危うい弟に
なんのアドバイスもできないよう引き離されたのだと思います。
大津はきっと、素直で明るい、悪く言えば 人を疑うことのできない、
人の心の裏を読んで上手にたちまわることが 不得意なタイプだったのかもしれません。
大伯皇女の無念は 万葉集に遺され 今に語り伝えられています。。。
墓所はわかりません
もし わかりましたら 教えてください。。
もしかして ツアーで通ったところに ひそかにあるのでしょうか。。
飛鳥の バスで通った場所に 一箇所気になる所があります。。。
 
9月12日

9・11テロ

2001年の米同時テロから 5年たちました。
あのテロで 命をおとした知人はいませんが、
私もいまだにショックを引きずっています。
大学では 英文科に所属していました。
ビジネス英語や アメリカの現在 などを勉強すると
必ず 写真が掲載されていたのが
ニューヨークの 世界貿易センター ツインビルでした。
世界の経済の先端を行くアメリカの象徴として
そのビルは いつも 誇らしげに 紹介されていました。
英文を専攻する学生は 誰でも一度は憧れたことがあると思います
英語を駆使して 世界経済の頂点のあのビルで、活躍するビジネスマン姿の自分を。。。
私も いつかは あのビル内で 仕事ができたら!と
貿易英語を勉強しながら 夢みたこともありました。
アメリカへ もし遊びに行けたら 絶対あのビルに遊びにいこうとも思っていました。
5年前の 9月12日のニュースで見た
あのビルに飛行機が突っ込む映像・・・
ほんとに 衝撃でした。。。
えっ・・アメリカで 飛行機が ビルに突っ込んだの!?
どこ??えーー!! ワートレ!!??二つとも???崩壊????
うそでしょうーーー!!!
仕事に行くまでの時間 テレビに釘付けになって 情報を聞き漏らすまいと必死でした。
悲しかった。。
悔しかった。。。
ものすごい 喪失感でした。。
もし アメリカへ行ったとしても もう あの双子ビルには二度と会えない。。。
ビルが崩壊しただけでなく 多くの人が命を落とされ、
飛行機も 何機か犠牲になりました。。
テロがゆるせないのは もちろんですが
それにもまして 許せなかったのが テレビ局です。
何度も何度も 飛行機がビルに突っ込む映像、崩れるビルの映像、
地上を逃げ惑う人々、、、、
あげくのはてには ビルから落ちる人々の映像(この文章を入力するだけでも
申し訳ない気持ちで一杯になります・・)
それらを 画面いっぱいに 何日間も流し続けたのですから。。
突っ込む飛行機の中にも、ビルの中にも
生きてる人々がいたんです。それなのに、どうして
あんな 残酷な映像を 事件後 何日も後まで 放映し続けたのでしょう。。。
アメリカでは あの映像は 子どもの心に傷を与えると
早々と 放送禁止となりました。
日本も そうしてほしかったです。。。
今 跡地は 「グラウンド・ゼロ」と呼ばれているそうですね。
夜、ライトアップをして 光でツインタワーを再現している ということもニュースでやってました。
多くの方々が 心的外傷後ストレス障害(PTSD)に苦しんでいるそうです。
まだ5年ですものね・・
日本のご遺族の方たちも、
愛する方を喪った悲しみをゆっくり癒していけるよう 
深くお祈りしております。。
私も 頑張ります。。。
9月11日

整形

去年、平成17年夏 同業仲間と飲んだ時、
ガクトさんファンで~す!
と 言ったら 30代前半男子クンが
ガクト(呼び捨て コラコラ!) 整形してるでしょ、ネットに出てますよ
と言った。えっ!?整形疑惑??まじですか~
おととい ふと そんなことを思い出し、ネットの検索をしてみました。
ガクト(年齢未発表) ヨシキ(40)とコラボ
とあったりして びっくりしましたが。。。ヨシキが40才?! にビックリしました。
ありました。整形疑惑の記事
かわいい中学生のガクトさんでしょうか、現在の写真と2枚 使用前・使用後みたいな感じででてました。
あごと目だそうです。
でも、大変 恐縮ですが ファンのひいき目ではなく、
違うと思うな~ 整形してないで~す~よ~
今現在 テレビのトーク番組などで 動いてるお姿を拝見すると
正面からの あご その中学生頃と変わってないですョー
ななめ横からの写真は プロのカメラマンの技術で すっかり 隠されてますが
それは 芸能人なら 誰でも当たり前の 七難隠しです。整形ではないと思います。
ガクトさんも 以前 おっしゃってましたが
男の人は ふつーに鍛えると 首にもこもこ筋肉がついて ケンシローのように
なるんだそうです。
で、彼も そこには気をつけて 筋肉がつかない鍛え方をなさっていると。
首の印象で あごも 変わりますから、鍛え方次第で 見た目も変わったりするのでは
ないでしょうか~。
そして スマップの くさなぎさんが おっしゃってましたが、芸能人の顔写真、
写真として本に採用される数は 100枚撮ったうち ほんの1,2枚なんだそうです。
あとの98枚は 変な目をしたり笑顔がへんだったりして よく映ってないそうです。
で、
うそっ!!これが俺かよ??美しい!!別人だ!!
という写真が 本に載り 私達に公開されるのだそうで、写真もあてにならないですよねー
きっと、ちょっとした角度の違いで本人の欠点をかくして、本人以上の美しさが表現
されていると思われます~
次に 目。 一重が二重になった~ と記事にありましたが、
実は 目というのは 手術しなくても 心とヨガで、いくらでも一重が二重になるんです~!
それに 二重は はっきり言って まぶたのしわですから、 お年をへるとでてくることもあります。
私、生まれは みごとに美しい一重まぶたでした。
これは、ほんとの話ですが、今から25年前 18才の頃
原因不明で、目がかゆくなり あまりのかゆさにかきむしっていました。
実は 花粉症で 元祖だったわけですが、目薬もささずに
なんで かゆいんだー えーーん!!
と、かいてたわけです。
そしたら!!なんと!!
目が二重まぶたになったんです~
左はくっきり、 右は ちょっと中途半端な二重に なってしまいましたがー。。
本人もびっくり。
本を見ながら 目がぱっちりするヨガをやっていたので
それも関係するかなーと思います。
同窓会で会った 高校の友人達に
うわー!! ゲゲ整形したねーー!!いくらかかったの~??
と、いわれたほどの 立派な二重まぶたでした。
私だけかなーと思っていたら
歌手の岩崎宏美さんも 花粉症で目をかきむしっていたら二重になった!
と、おっしゃっていたので やっぱり仲間がいるんだーと安堵いたしましたよ。
あと、人相学でも、顔というのは、心がけでいくらでも変わるんだそうです。
今の私も いきいきと充実した毎日を送っていると
左の中途半端な二重が きれいな二重に変化したりするんです~
ややぐうたらしてると、銀さんのように、どよどよーんとした二重になったりします・・
ガクトさんは、努力家なので、年とともに顔もうつくしく
変わってきたのではないかと思いますー。
しかし、あの30代前半男子クン なんで そんな ネットに出てるって知ってたんだろう~
実は 密かにファンで 検索してたのだったりして・・・。
9月9日

ブログ開設 その五

井沢元彦先生の 逆説の日本史 に触発され
平成17年新春 万葉集を買いまして、 気に入った歌の解読を
 額田王の暗号  を手本に 始めてみました。
天智天皇の死の真相がないかと、そのあたりの歌からはじめ
持統天皇の歌 天智の子どもや妻の歌 天武の子の歌 などなど
自分なりにやってみましたが どうも うまく つっこむことができず
一時中断。。。
そして 平成17年も終わろうとする初冬
一連の騒ぎの後 、また再び 万葉集の解読を
始めてみたわけです。
特に 理由は無く、
ただ 単に こたつに当たってる時 何か書き物をしたかったので、
(パソコンは長女に取られてしまうのです・・・私が買ったのに~~~ )
パズルを解く感覚での 軽い気持ちの再挑戦でした。
どの歌にしよう~と考え 読んでいるうちに 
やはり 我が家のベランダから見た宇都宮二上山(勝手に命名)のことが思い出され、
大津皇子を偲んで歌った 姉の大伯(大来)皇女の歌に 目がとまりまして
馬酔木(あしび) のうたの 解読を始めました。
同母弟の大津の墓を 二上山に移すときに悲しんでつくった歌と、詞書きにあります。
二首あり、一首は 二上山を弟と思って明日から見よう という内容で、
馬酔木の歌は 二首目です。
古来より 姉の 愛する弟への美しく悲しい 感傷の歌とされ 
馬酔木の花 の歌としても有名です 。
あんまり 美しい兄弟愛の歌って、気がすすまないなーー
と、なんとなく 解読を始めた私ですが、ひとつひとつ 漢字を紐解いていくうちに
・・・・・・・・
・・・・なに この 歌・・・
・・・・ほんとに ただ 弟をおもってるだけの歌・・・・・???
と、鳥肌がたつくらい ぞーーーっと してきたんです。。。
馬酔木ですが この歌の場合  酔 の字に 醉 を当てています
この醉を 細かく 見ていくと
辺の西  方位の にし
右の卒  むかし四位 五位 の ひとの死
という意味があります。
大津は貴人ですが 謀反の罪で刑死させられているので、無位だったか
または 位を下げられたと想像されます。
西の 位の低い人の死・・・・・藤原京の西の二上山に葬られた大津のこと。。。?
そして 手折る の  折  の意味  若死に  があります
在 という漢字もつかわれてますが
土がたまって ふさがる意 があります    埋葬??
このほかにも えーーーっ  と、 いう漢字が多く使われています。
とても 解読していて怖かったです
ばれたら 死刑では?あの時代。。
そして 昔から指摘されているようですが
山野に生える 馬酔木 なのに
なぜ この歌では 磯にさく馬酔木と詠んでいるのか・・という謎があります。
川のほとりにあったのだろうと推測されていますが。。。。。
そして 歌の後ろについている 後世の編者の補足解説文 
大来皇女が 伊勢から帰るとき 路(みち)のほとりに花を見て感傷哀咽して歌をつくったか
と書いてあるんですが・・・これは 世間の人の目をだますために学者さんが書いたに
違いありません。。。(額田王の歌の解説文で 藤村 由加氏が指摘してます!)
馬酔木は 春 花をつけるそうです 
大来が伊勢から戻ったのは11月です。。花は咲いてないと思います。。。
磯 と歌ってるのに 学者さんは 路 と いってます。。。
感傷哀咽して といってますが この歌は 明らかに 
弟は天皇によって西の山のいけにえになった と 告発してます。。。。
                
万葉集を解くにあたって、素人への風当たりか、
漢字を分析すれば いくらでも 悪い意味に解釈できる という意見もあります。
でも 作ったほうの立場で、考えてみるに、
やはり 普通につくるより、裏に別の意味を込めたほうが技巧が優れているのではないでしょうか
私は そうやって 声にだせない 恨みを 歌の漢字にこめて
飛鳥時代の知識人たちは 政治を批判しながら生きてきたのではないかと思うのです
巷に流れる場合は 口承ですので、一般人には 漢字が 伝わりません。
そして このやばく危ない歌をまとめたものが 万葉集 として 伝えられてきたと思います 
この 大伯(大来)皇女って人は・・・・
私は もしかして 私に起こった一連の 直感騒動は
この人が深く関わってるのでは・・・・? と 
恐る恐る思うようになりました・・・・
万葉集の解読をしてると ピシピシ 部屋のあちこちから音がするので
なんとかしてほしいです・・・・・(怖) 

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ブログ開設 その四

9月8日

ブログ開設 その四

実家に帰る途中 群馬県太田市に 朝子塚古墳 という 前方後円墳があります。
本にかいてあったネタかもしれませんが 長女の好きな自己紹介ネタで、
初めまして~○●◎子といいますーー
えーーとーー 趣味は読書で~~
好きな古墳は 前方後円墳です。えへっ
みなさん よろしくお願いしますーーー。
私も 好きで よく 思い出し笑いします
自己紹介で 古墳!?みたいな・・・
この ほのぼの感がたまりません~~
先日気付きましたが、前方   前が 方(ほう) で 後円  うしろが えん
なんですよねー
すっかり 鍵穴の形で 記憶してしまいましたが 逆なんですね~
前が 方墳で なだらかな三角形。 
後ろが  円墳で まあるくこんもり盛り上がっているのです。
記憶を修正するって 難しいです~~
その 朝子塚古墳ですが 被葬者は もちろん わかりません。
里帰りの時 いつも 車から眺めております いい形です。案内の看板が立ってます。
赤城山からの 風をうけ 大地の上に 黙って盛り上がっています。。
平成17年初秋の 庭の参道整備、 薬師寺東塔に似た鉄塔、 ふたこぶの二上山事件、
は そもそも ほん怖コミックス 闇に笑う女帝  を 手に入れてから 起きたことでした。
小学校の頃から 古墳 埋葬文化 に興味がありましたので
屈葬で埋葬されていた人の骨・・・などなど 骸骨の写真を興味深く拝見してました~ 
その頃は 変だと思わなかったけど 今 変な子 と思います。。自分で。
古墳て 死者を葬るためだけではないのでは・・??
と、ほん怖で 闇に笑う女帝が 掲載された 平成14年 ちらっと思いました
当時は 忙しかったので 特に調べることもできないまま
平成17年 うさぎやで 単行本に出会え 夢中になって読み返し 自分なりに調べ始めていた所に 
その一連のさわぎが おき始めたのです~
平成17年 初冬  ある晩 ふと その朝子塚古墳て 被葬者は誰だろう~
と、布団の上で 考えていました。
名前からして あさこ という かわいらしい12・3の女児かなーーと
魂をとばして 思いを馳せておりました。
後日 ネットで 調べりゃいーじゃんと はたと気付き、あちこち検索しました
結局 被葬者はわからず(当たり前ですが) しかも なんと 読み方を
間違えていたことが 判明しました・・・
あさこ  ではなく   ちょうし   と  読むんだそうです~~~
恥ずかCーーー!
あさこなら イメージわくけど ちょうし はイメージわかないなーー
とわたくしは 誠に勝手ながらくさっておりました。
ちょうしは どうも 中宮 定子 (ちゅうぐう ていし)が思い浮かび 想像しにくいのでした
それに 人の名ではないかもです。
ところが 考えるのをやめたのに、
なんとなく 私の頭の中か 心に 
飛鳥時代風の衣裳を身につけた妙齢の女性が 浮かんでくるようになったんです~
イメージが浮かぶって いうんでしょうかーー。
顔はわかりません。後ろ姿です。頭髪は結ってます。おうぎのようなものを持ってます
秋か、初冬か、草のたなびく平地から 遠い西の山を 見ているのです。
愚かな・・・ 
無念・・
もう少し 周りに気をつけて すきを見せずに行動していたら・・・
そのお方は なぜかそういう 誰かのことを悔やみながら その場所から、山を見上げ
衣裳を風になびかせながら 立っているのです。
お付きの 女官たちが何人かいます
そろそろ・・・あまり 人目につかないうちに・・・
見つかりましたら あまり よろしくございませんから・・・
控えめに 申し上げる女官にうながされ その女性は
高貴な身分なのでしょうか、その場を離れ、家に戻るようです。。。
その山を見ることは その人にとって少し危険というか、誰かに見つかると
やや厄介なことのようです。。
なにかしら この映像~~・・・
ちょうしちゃんが 誰かのことを思いながら 赤城山を見ているのかな~~
うーーん でも なんか 赤城山ではない気がするーー
空気が 群馬ではないよなーー
群馬は もっと 空気がすんで 空が青いもの~~
誰なんだろうーーこの人ーーー
どうも 亡き人を慕ってるというか 責めてるというか あきらめてるというか・・・
わからないまま 私の興味は 万葉集 へと 移っていきました。
9月7日

皇室 男児 ご誕生

昨日 9月6日 秋篠宮家 紀子さまが 男児 ご出産 ということで
まことに おめでとうございます
新聞 テレビ等の 報道のすごいこと すごいこと!
平成の御世で、これだけなのですから
平安時代とかは どれほどの騒ぎだったのでしょう~
きっと ものすごい お祝いの日々が続いたのでしょうねー
色々 皇太子妃雅子様を 気遣う声も聞こえてきますが
わたしは 雅子様ももう お心安らかになさって 
男児出産というプレッシャーから逃れて欲しいと 切に思っております。 
適応障害 というご病名ですが
女性なら 出産後 多かれ少なかれ 子どもが10歳くらいに成長するまで
誰でもなりますから
どうか のんびりと ゆっくり 静養なさって休んで欲しいです。
いろいろ 新聞で 週刊誌のタイトルを見ますが 
まー 悪意のある記事の多いこと 多いこと
よくまー これだけ 意地悪姑的発想で 記事がかけるなーと
逆に 感心してしまうほどです。
愛子様が 人前で笑わない  なんて・・・・
あのですねー きちんとしつけられた お子ちゃまは
幼児のころ 人前 とくに カメラとか 知らない人たちが大勢いるところでは
笑わないものなんです!
むしろ 幼児が 知らない人の前でにこにこ笑うほうがおかしいんだっちゅうの!!
秋篠宮家の眞子ちゃまも笑わないでしょ!!(うちのこも笑いませんでした!逆ぎれ)
皇室は とても 世間とかけはなれています
シャンプー・リンスも つかっていいことになったの 割とつい最近 
10年前か 20年前です。
それ以前は 椿あぶら だったそうですから
いかに 伝統と 昔からの規則に縛られているかですよ。
ほんとに 雅子様もよくがんばっていらっしゃると 思います。
1000年以上の歴史をもつ 天皇家です。
私も 興味があって 飛鳥 奈良 平安 と 色々調べてますが
・・・・・・・!と 絶句してしまうほどの さまざまな歴史を秘めた皇室ですから
普通の方なら 精神が参ってしまって当然と 思います。
雅子様の 守りの後ろの人たちも がんばっているのでしょうがねー
あと少しで きっと 守りが完成できると思うのですが・・
世継ぎ とか 男児とか 女児とか もう 誰が継いでもいいです 
なんて 不謹慎なことを思うのは私だけでしょうか~
才能ある 雅子様が いきいきと 皇室親善大使として
外国の方と かっこよく対応されるニュースを見たいなー
と、同年代の私としては思います。
ご自分のキャリアが生かせるのが一番の幸福とも思います。
何年か前の新聞で読みましたが 皇室というのは
とても 諸外国に 人気があるのだそうです。
だから 日本国の外交に とても重要な親善大使のお役目を
果たしているんだそうですよ。
そして、きっと 多分 日本国を守る 秘密の祝詞もたくさん
おありになるんだろうなーと、私なんぞは勝手に思っております。
友人が言ってましたが、
お母さんのおなかの中で、男の子を妊娠するほうが簡単なんだそうです。
女の子を妊娠するほうが 難しいんだそうです、生理学的に??
我が家は女の子二人。。そうかー難しいほうだったんだーー私って天才!
友人の友人が20年近く前 出産した時 女の子が生まれて
見舞いに来た姑に
お義母さん 女の子でしたよー
と、言ったら その義母、嫁さんの目も見ずに むすっと
次は 男の子ね!
と 冷たく言い放ったそうです~ こえーーー!!
そんなこという義母の老後の世話なんぞしたくないものですねーー
今では すっかり 女児礼賛ですよね 世間は。
老後の世話もしてくれるし すごく頼りになります。
だから、皇室もきっと 世間の傾向で 女児が続いてるとおもうんですよね~
我が家の子等は
すっごい いけめんの男に生まれて いっぱい女の子ナンパしたかった!!
なんて 言ってます、
世の中の男性 誰もがそうに思ってるよ、 と私が言っても耳を貸しません。。。。
自分が 男に生まれていれば 絶対 いけめんだった!!と、言い張ってます。
(何を根拠に・・・)
新宮様に 天皇がお授けなさる 守り刀は すでに 仕上がっているそうです。
79歳の人間国宝 刀剣作家 天田昭次さん(新潟県新発田市)が8月中旬に
刃渡り26センチの一振りを完成させた と今朝の読売新聞に載ってました
長女に言ったら
いいなー じゃー我が家もそうするってことで うちにもちょうだいー今ー
と欲しがっていました。あのこの欲しいのは 日本刀ですが。。。
どうも、私の父方の先祖の血が色濃く出たようで、戦国系の戦うゲームに夢中だし
刀とかに 興味があるし この平和な代になんなんだと思います。。。。
 
9月6日

ブログ開設 その参

鉄塔に気付いた数日後、同じく 夕方
二回のベランダで 洗濯物をとりこみながら
なんとなく 西の山々を きれいだなーーと ながめていました。
19年間で 初めて といっていいほどです。
いつもなら 山があるなー で 洗濯物をとりこむのに忙しく、見過ごしていました。
宇都宮の 名も知らぬ いくつかの西の山々 と、 日光 男体山が 見えます。
あの鉄塔も見えます。
一階の 家と物置の間の部分もきれいになり、ベランダから見下ろしても
とても  見栄えがよくなりました。
それにしても あの鉄塔が 薬師寺の 東塔ねー
と、山々をみながら ぼんやりしていた私は ふと 
いつもなら良く見えない山がひとつ、鉄塔の左方面に
その日は はっきり 見えることに気付きました。
その山にはこぶが ふたつ ありました・・・
えっ  二上山・・・・・?
びっくりしました 18年間 で 初めて気付きました
目線から やや 左にある山で、おまけに 色が薄い(こんな言い方も変ですが)
きっと控えめな山なのでしょう。
えーーーーー!!!
なんで、こぶが ふたつあるからって 二上山と思うのよーー?
あーでも たしかに・・
奈良の 藤原京 の 西の山の 二上山 に似てるかも~
その雰囲気が神々しいとことか 夕焼けが似合うところとか。。。
本物の 二上山の写真とは 左右のこぶの大きさとか 違いますが
でもまあ 宇都宮の二上山と称してもいいような 雰囲気の山でした
名前は絶対 違うものが ついているでしょう。 わからなくて申し訳ないです。
奈良の二上山は 大津皇子の陵墓があるとして 有名です
私は その頃 あまり 悲劇の皇子である大津皇子には興味はなく ただ 
皇子の墓を 二上山 の山の上に 移した ということぐらいしか知りませんでした。
そのとき 心の中か 頭の中か わかりませんが
あの山を見て 二上山と思い 心の 慰めにしている
ということが 浮かびました。
しえーーーー!!!
もしかして 山を拝むから 家と物置の間に参道を 作ったのって
このことだったのかしらーーー
わたしは 今までのことが 全てつながっている・・・ と、感じました。
山を拝む場所を作らせ 鉄塔を 薬師寺東塔に見立て
山を 二上山 と 慕っている・・・・
一体 誰なのでしょう。。。。
9月5日

ブログ開設 その弐

神社の参道 発想 に続いて その少し後日。平成17年 初秋。
やはり、仕事帰りの時のことでした。
我が家は、保育園のそばにあるので、夕方5時を過ぎると、
保育園のお迎えラッシュになります。
保育園をでた車が、大道路に出る途中に我が家はあります。
道が狭くすれ違えませんので、私は、大道路のまんなかで
右折ランプを出し、保育園の車が道路に 全部 出るのを待ってます。
5時を過ぎると、保護者の車が次々と道路にでてくるので、
5分ぐらい、私は 道路の真ん中で、右折できるチャンスを待っているのも
しばしばです。
嫁に来て19年間、いつもそうしてきましたが、
その日も、次から次へと、保護者の迎え車が出てくるので、中々 右折できません。
私は、運転席から ぼけーーっと、西の空を 見ておりました。
うわーなんてきれいな夕焼けなんだ~
仕事後の夕焼けは 格別~~~
おっ 鉄塔があるーーー
薬師寺の五重塔に似てるね~~
          
えっ??? 
私、今 何 思ったの?
薬師寺の五重塔~~~~????
確かに、塔に見えなくもないこともないけど~
なんとなく 似てるし~~~
でも、どこから 来たの???その 発想????
奈良? どこ??
えーーーーーーっっ????!!!!
右折して、帰宅後、あわてて調べました。
あらーーあるわーーー 奈良 やくしじ 東塔ーーー
よく読むと 実は 三重塔だが、裳階があるので、6重塔に見えるという~
なんだ、五重塔じゃないじゃん
やだなー 変なこと 思って(苦笑)・・・・・
でも、気になりましたので 
次の日 また 道路の真ん中から その鉄塔を見てみました。
鉄塔は 多分 電線を あちこちへ わたすために立っているものでしょう~
いくつも立っていますが その道路の真ん中からは
どーんと 一つが  立派にそびえているのが、いい感じに見えるのです。
私は 好んで 鉄塔 と呼んでおりマウス
子等が 幼い頃 回らない口で てっとー  てっとー と呼んでいたのが懐かしい~
そして、一階 二階  にあたる部分を数えてみましたところ
なんと! 階? の部分は 6つ あったのです・・・・・
あらーーー 。。。。
夕焼けの中にたたずんで、ほんと 奈良の薬師寺 東塔によく似てる~~~
つまり、
 
私は 過去19年間 そんなこと 一度も思ったことがない ですが
何かが  私の頭の後ろか  頭の中で 
あの鉄塔は 薬師寺 の 東塔 に似ていると言った? 指摘した
でも、私の記憶としては 薬師寺の塔は 五重塔 だったので、
私の言葉として出てきたのは 薬師寺 五重塔 に似ている という認識だった。
実は それは 私の記憶違いで、薬師寺の塔は 実際は 六重塔に見える三重塔である
鉄塔も 数えてみたら 実は 六重塔 であった・・・
そうなんです 
なにか  何者かが そう ささやいたとしか 思えないです。。
庭をきれいにして 山を拝もう  というのも もしかして・・・・ 
・・・・その後もまだ  続きました・・・
わが家の二階のベランダから 撮影した 鉄塔

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ブログ開設 

9月4日

ブログ開設

去年、平成17年の今頃、
仕事が終わったある日の夕方、我が家の庭で、ふと、
母屋と物置の間のスペースをきれいにしたい、
という思いにとらわれました。
母屋と、南西側の物置の間は幅、1.8メートル、長さ7メートルあり、じゅうたんの切れ端が敷いてあります。
庭に、敷物をしくのはよくないと聞いたことがあるので、気にしていました。
我が家と、西となりとの敷地の境界には、低いブロック塀があり、
西隣りは、とある紳士服専門店の駐車場になっているので
広々と視界が開けています。
その先に、宇都宮市の西の山々が、住宅地のむこうに、見えるのです。
正確には、我が家の一階からはよく見えません。家の2階からは割とよく見えます。
敷物を取り、きれいな石でも敷けば、神社の参道のような きれいな空間になるなーー
と、思ったわけです。
家の東のリビングの前の庭から、7メートルの参道を抜けて、その先に、日光と宇都宮の山々が
拝める!!(正確には よく見えないのですが・・気分的に)
神聖な場所に変身だ!!
自分の考えに、天才だ!と、賛辞を浴びせ、その日から少しずつがんばってみました。
石をすこしづつ、予算の範囲内で買ってきて庭にしきます。
あと少しで7メートル完成です。
植えてあった花も、見栄えよく手入れし、枯れ木は抜き、
おしゃれなレンガを置きました。
歩きやすいように、飛び石も置きました。
すてきな空間です。蝶ちょも喜んで飛んでます。
でも、ふと、なんで、私はこうにしているんだろう~と思いました。
山を拝むって、一体、どこから出た発想????
なんで、神社の参道 ?
住宅がじゃまで、山々よく見えないのに、一体どうして こういうことを思いついたのか・・
(たまに見えるけど・・・)
その日から、少しずつ、不思議な発想に見舞われた
平成17年の初秋でした~

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関東大震災

9月1日

関東大震災

大正12年1923年 関東大震災 発生
父の実家 埼玉県本庄市も、母の実家 埼玉県児玉町 も とても揺れたそうです。
当時は 児玉郡本庄町?
祖母が 生前 話してくれました。
母方の実家 児玉町 (平成の大合併で 現在 本庄市)は、
さつまいもの形の埼玉県の上の部分の一番西側になります。
地震の後、遠くの東の空が ものすごく赤かったんだそうです。
近所の人たちと なんだろねー と言ってたんだそうです。
後で、それは、東京の火事だったとわかり、
100キロ以上離れていても見えたなんて
よっぽどひどい火事だったんだ・・・
と、そのすさまじさに驚いたそうです。
祖母が、少女か 乙女の時でしょうか~
祖母は、7人の男女を生みまして、上から4番目、下からも4番目の私の母が
一番先に逝ってしまいました。(あら、なんとなく不吉な・・)
6人の伯父伯母叔父叔母は、みな元気です。
でも、母は今、両親を独り占めして、親子3人で楽しくやっているのではないかと
思っています。
兄弟が7人いるということは、それはもう凄い騒ぎだったそうなので、甘える時間なんて
なかったらしかったので。。。。
それとも、けんかしてるのかなー・・・
祖母が80代、母60代の時の生前の会話。
娘の頃、私が買ってやったスカート、 履かなかったんだよ、
ゲゲのお母さんは。  と、祖母。
だってー 色がきにくわなかったんだもん~  と、母。
ちょっと~~~ 何十年前のこと むしかえしてんのー?50年前~?
祖母は、亡くなる前、病室で、私の伯母に
幽霊がイッパイいる  
と訴えていたそうです。伯母が
おばあさん、幽霊なんてどこにもいないよ
と言うと
そこにいるだろうー、視えないんかー? 
しきりと訴えていたそうです。
今思えば、幻覚ではなく、ほんとに視得てたんだろなー。お迎えだったのかな~

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言い伝え

6月2日

言い伝え

父方の実家には、こんな話が伝わっています。
「先祖は新田義貞公の家来の家来の家来で、戦に負けて、今のこの地に逃げてきた。」
たったこれだけですが、親戚が集まるとこの話で盛り上がります。
言い伝えだけで、何の証拠もありませんが、私は本当だと思っています。
実家は農家でしたが、雰囲気が、武士っぽいんですよねー。
NHKの大河ドラマの武士の家と、同じ匂い(?)なのです
6月1日

沖田さんの命日

 5月30日は新選組の沖田総司さんの命日。
私は植木屋さんで逝去説派。直感。
何年か前、東京でのコンサートを見に行くついでに、
その場所へ行きました。駅を出て、よくわからずに
住宅街へ行ってしまったら、何も感じない。あらー
と、思い、反対方面へ向かったら、変な頭痛がする。
おーし!きたー!と、てくてく歩いて行った所に
本の通りにガソリンスタンドがあって、その隣に
マンションが建ってました。頭痛は最高潮。
痛いよーと、振り返ったら、10メートル先に、
懇意にしてる会社の東京支店がありました。
うそー!目と鼻の先じゃん!こういう場合って、なにか不思議なものに
導かれてるっていうか、つながってるっていうか・・
誰かが教えてくれてるんだろうなーと、いつも思います。
霊能力は全然ありませんが、感じた何かを頼りに
史跡・名所を歩いてます。そのマンションのそばに、少しの
間たたずみ、空気を感じて、そこから離れました。
ガソリンスタンドの前を歩いていたら、視線を感じるので、
見てみたらびっくり!さっきはいなかったのに、猫が3匹も
いて私を見てるんですよ。やっぱり、新宿御苑のとこなので
野良猫も多いんだろーなーと、納得。黒猫がいたのもうなずけます。
猫が、当たり。ここだよ。と、教えてくれているように感じました。
写真の、マイペース風な猫は、中国ののら です。

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