いつもなのですが、史跡巡りをすると、頭が痛くなります。
8月6日の自転車散策も、とても痛くなりました。
ここが、あの場所だーー!
と、感激のあまり、首・肩がはって、血流が悪くなり、頭痛発生・・?
普通なら、感激のあまり血流が良くなり肩こりが直りそうなものです。
よく、塩 といいますが、一度憑いてしまったら、塩は役立たないそうです。
気持ちが清浄な時 念じてまくと、悪いものが憑かないようになるらしいです。
昔の中国の大奥?後宮で、天子様の気を引きたくて、姫様が盛り塩を
入り口の外において、天子様が入ってくるようにしたという話もあるので、
相手によっては、かえって憑きやすくなるのでは?とも思います。
誰か霊能者が、葬式の後に塩まくよりは、葬式行く前に塩まいて、
憑かないようにしたほうがいいと、言っていました。
過去、私も、頭痛の後にいくら塩まいてもだめでした。
お気に入りの水晶の数珠を持っていけばよかった~
六道 戊辰役戦死墓(ぼしんえきせんしはか)の、道路を東に行くと、報恩寺 があります。
山門が美しいと、有名です。臨済宗。
もう頭痛がんがんでしたので、写真も撮らず、ひたすら低姿勢で、言い訳しながら
お墓参りさせてくださいー、何もしませんからー
新撰組が好きですが、基本的には戦争って大変だったなーと思ってます。
霊能力ないので、何もできません、すみません。
と入っていきました。
本堂の正面右側に、戊辰薩藩戦死者墓 という、白い大きな高さ2メートル幅1メートル厚さ70センチくらいの
立派な、みかげ石?の墓石があります。
官修墳墓だそうで、見るからに、
あー、明治政府が立派に建てたんだーというものです
その向かいに、鳥居があって、戦士烈士の墓があり、薩州、長州、大垣藩の戦死者名が
列記されてます。寺の境内に鳥居があるってことは、神仏分離令がからんでいるのか、
神に祭上げて、祟らないよう封じ込めているのか、よくわかりません。
幕府軍側の戦死者の遺体は道路上に遺棄されたままだったそうなので、
付近の住民の方々が、道路わきに埋葬してくださいました。
これが、六道口の道路の墓です。ここも鳥居があります。
ここの写真は、丁寧にごあいさつして、一枚だけ撮らせて頂きました。
私は、幕軍よりの人間なので、許してもらえると勝手に思って・・
同じ人間、日本人なのに。どこでも、同じですね、激戦地では。
きっと、地元の方々は、新政府軍の目を盗んで、こっそり埋葬してくださったんでしょうね。
ありがとうございます。
でも、新政府の役人さんも、知っててもあえて何も仕置きしなかったんじゃないかなー
と勝手に想像します。そうであってほしいです。見つかって罰せられたという話も
伝えられてないので、良かったーと、思っています。
報恩寺に、幕府軍の土饅頭墓があると思っていたのは、記憶違いのようでした。
官軍のお墓しかありませんでした。
あとで、頭痛がない時を狙って再訪問したいと思います。
美しい山門も、写真を撮るつもりです。
記憶って、たった数年の間に変わってしまうんですねー
やっぱり、その日その日できちんと記録に残しておかないとダメですね。
特に史跡は、きれいに修復したり、周りの家の様子でがらりと雰囲気変わります。
次は、近くの光琳寺へ行きました。報恩寺の北方面に当たります。浄土宗。
ここも、本堂正面右側に、鳥居があって、官修墳墓があります。
これは、土饅頭で、上に墓石が置いてあります。
記憶では、本堂正面左側に、幕軍の戦没者の土饅頭があった気がしてたんです。
で、一生懸命探しましたが、ありませんでした。
初めて見た時は、ただの土饅頭で、2回目見に行ったときは、屋根がかかっていた気がしてたんですが
記憶違いだったのかなー・・・・うーん、夢でもみたのかな。。。
幕軍の墓は、確かにありますが、平地で、土饅頭ではありません。
きれいな墓石も新たに建てられていました。
官修墳墓と、幕軍墓が、ごちゃまぜになってしまっていたのでしょうか。
でも、うーーーん、あの、土饅頭はすごい衝撃で、確かな記憶と思っていたのですが・・
残念です。
報恩寺と、松ヶ峰門の間に激しい戦闘があったそうですが、今はもう、家やビル、学校などが
立ち並び、報恩寺の前の道路からは、松ヶ峰門の今も残る松の木は見えません。
松の木のそばに高いビルがあるので、大体の目印になりますが、地図で見たり、目の感覚では
約300メートル離れている感じがします。
300メートルなら、大砲の射程距離でしょうか。
報恩寺から、東に、松ヶ峰門跡があります。
当時、人家などなければ、まっすぐ行った方向なので、狙いやすいかも知れません。
慶応4年1868年4月23日早朝から夕方まで、ここ六道で激しい戦いがあったそうです
宇都宮城には、すでに19日、旧幕府軍が入っていました。
この城を奪回しようと、新政府軍の救援隊(土佐藩を中心とした洋式部隊)が、
攻撃をしかけました。
そうですね、道が合流してるし、ここで、食い止めないと、新政府軍は一気に城へなだれこんで
いくでしょうし、幕軍はきっとこの六道を死守しようとがんばったんだと思います。
新撰組の土方さんは、このときどこにいたかはっきりしないそうですが
宇都宮戦で、足指を負傷してます。
二荒山神社にいて、指揮をとってたと言う方もいます。
この23日の戦いではやはり、松ヶ峰門にいたでしょうか。
23日夕方、城は新政府軍に奪回され、幕軍は北西へ撤退し、日光方面を目指し会津へ行きます。
宇都宮市内は、武家屋敷跡のなごりで、道がほそく、くねくねしてます。
曲者をすぐ、おいつめられるようにしてあるようです。
今も、残っているので(いや、ぜひ、永遠に残してほしい。もっと宣伝もしたほうがいいと思う)
自転車で走っていると、城があそこだから、こうに道が入ってーと、
江戸の街の様子が想像できます。
当たり前のことでしょうが、ここ六道で激戦があったとは、今は全く感じられません。
学校あり、人家あり、商店がありと、普通の住宅街です。
宇都宮で、趣味で歴史を研究してる人が
宇都宮の人、六道の戦いも、新撰組の土方がここに城攻めに来たなんて、
一切知らないんですョ!戊辰戦争の激戦が宇都宮であったって言うのも
知らないですからねー。
と、嘆いてました。
確かに、先祖代々宇都宮在住という人は、私も知りません。
よその町や県からの人が圧倒的に多い土地柄です。都会なんですね。
私も埼玉出身。夫の両親も新潟出身です。
でも、一方で、戦争の記憶っていうのは、忘れたい人もいるのも
事実です。
私は、戦争の経験がないので、のんきに歴史を調べたりできますが、
体験した方にとっては、非常につらいものですよね。
光琳寺を最後に帰宅しました。
吐き気がする頭痛で、寝込みました。土饅頭もなかったのもショーーック!
お盆で、仕事が休みになったらまた行きたいと思います。
参考文献 まんが うつのみやの歴史 宇都宮市制100周年記念事業実行委員会
うつのみやの歴史再発見 塙 静夫 随想舎
思い出しました。1996年の市制100周年イベントで、我が家の長女は小学校の管楽器クラブの一員として、
うつのみや市役所時計台お披露目の式で演奏したんだっけー。
1868年の戊辰役から128年、平和っていいですねー。