戊辰戦争巡り

5月20日
5月5日土曜日 よく晴れたゴールデンウイーク日和
1人で 午後 母の遺品の数珠を持って
自転車で いつもの戊辰戦争めぐりに行って参りました。
最初は 二荒山神社
市の中央に位置して 長い歴史があります。
祭神 第10代祟神天皇の第1皇子 豊城入彦命(とよきいりひこのみこと) ほか
命の4世の孫 奈良別王(ならわけおう)が 仁徳天皇の時代に 命を鎮座せられたのが始まりとされてます
延喜式名神大社 下野国の一の宮。
本殿の建物の向かって右側には 神社が南面して一つくっついていて
須賀神社と市神社が 仲良く入っておられります
須賀神社(お天王さん)
御祭神 素戔鳴尊(すさのおのみこと)
例祭日 6月15日 午前10時
市神社 (商売の神)
御祭神 大市姫命(おおいちひめのみこと) 
例祭日 6月15日 午前10時
すさのおのみことの奥様?でしょうか
でも くしなだ姫ですよね。。
まだ調べてなくて 謎です。
須賀神社は 紋章が きゅうりの切り口に似てるので
7月の天王祭の 神輿渡御の際は きゅうりが奉納されます
祇園祭の 京都の八坂神社も 紋がきゅうりに似ているので
一ヶ月の間、宮の人々は きゅうりを食べないそうです
調べるとますます面白そうです。。にやり。。
本殿の建物の向かって左には 西面して
建物がくっついていて。。
ささっている 感じで ちょっと 子宮的な感じです。。
女体宮 と申します
御祭神 三穂津姫命(みほつひめのみこと)
例祭日 10月22日 午前10時
御神徳 生産、出産の女神
屋根の上のとんがっている細い棒 千木(ちぎ) というのだそうですが 
本殿と 女体宮では 違います 
伊勢神宮の本に書いてあったのですが
地面と水平に切られているのは 内削ぎ(うちそぎ)
    垂直にきられているのは 外削ぎ
内削ぎ は 女性をあらわし
外削ぎ は 男性をあらわすのだそうです
そして 屋根の上の丸太の棒は 鰹魚木(かつおぎ)
というそうで
男神は 陽=奇数
女神は 陰=偶数
だそうです
この女体宮の屋根の鰹魚木は 5本あるー??
みほ 三穂 美保 神社 というのが各地にあるようで
ネットで調べたら 
大国主の御后神 とか 事代主命の魂鎮め の役とか
なさっている 農業・子孫繁栄の守り神だそうです
例大祭は 10月21日が 多いみたいです
なぜ 宇都宮では1日ずれているんだ。。
すさのおのみことは 大変お忙しく
ほかに 3箇所で 二荒神社内で お祭りされてます
最初が須賀神社で
例祭日が 6月15日 午前10時
次に 荒神社 (疫病鎮めの神) で
例祭日が 6月15日 午前10時半
お次が 劍宮 (武道の神) で
例祭日が 6月15日 午前11時
そして 十社 (10命のうちのお1人として)
例祭日が 3月15日 午前10時
色んな謎を 楽しみながら 
きれいに整備された 宇都宮城跡
櫓が 二つできまして 中にも入れます
木のいい香りがしました
ちょっと散歩に良いです
資料館も充実しました
写真は 激戦があった城の西側 松が峰門 あたりです
城から撮ってみました
木の茂ってる辺り 恐らくそうです
土方さんは この時どこにいたのでしょうね。。
お次は 簗瀬橋
南から戦いながら 北上した 幕軍が
この橋を渡ったそうです。。お城のすぐ東側になります
今は こぎれいな? 橋ですが。。
昔は もちろん 木だったですよね。。
夜 通ると ちょっと 怖い雰囲気があります。。
ざっ ざっ と橋を渡る
軍隊っていうか 銃を持つ人が沢山歩いているような
雰囲気があるんです。。
まあ、そういう目で見てるからでしょうが。。
そして 亀井の水
鎌倉時代、静御前が 源義経を慕って
奥州へ向かう途中 喉が渇いて
家来の亀井六郎が 祈り 槍で突くと
そこから水が出た という伝説が残されています(看板より)
そのすぐそばには 常念寺(浄土宗)
お墓の中に
彰義隊数士之墓 というのがあると知り
ご挨拶に 行って参りました
近くで激しい戦闘があり、
彰義隊出身の 幕軍の方が 何名かお亡くなりになって
このお寺に 埋葬されたのでしょうね。。
ありました。
古い 石のお墓に かすかに字がよめました
無縁仏の一つとして 置いてありました
手を合わせてきました
写真をと思ったのですが。。
うーん。。なんの霊能力もないので
私は この方たちに 何もできませんと考え
撮るのをやめました
彰義隊の方なら 
お若い 東京あたりの方たちですよね。
上野の戦から 逃れて 
こんな遠い栃木で倒れられて。。
行った時も ちょうど 
宇都宮城の攻防戦があった時期と 近くて 
魂的に 無念さが なんとなく感じられたので
ちょっと遠慮させて 頂きました
お盆なら お写真撮っても 大丈夫な気が致します
お次は 英巌寺跡
宇都宮の最後の頃の城主 戸田一族のお墓があります
私も初めて訪れましたが
けっこう ここって 宇都宮市民も知らないのでは?
という 大変わかりにくいところでした。。
本当に ひっそり しかも 意外に広くて びっくりしました
真正面が 戸田忠恕(とだ ただゆき) の 墓です
最後から二人目の城主で
10歳で家督を継ぎ、山稜補修に取り組みました
天狗党事件の時 対応を誤ったとして 隠居・謹慎。
しかし 戊辰戦争の時 忠友に代わり 城主になり
新政府軍につきました
戦中に死去。22歳。病死?
もともと 墓は江戸牛込の松源寺でしたが
寺が明治41年に移転ということで 宇都宮に改葬されました
忠恕の 墓は 台座が亀? 玄武?の とても立派なものです
こちらは 写真を撮っても大丈夫な雰囲気でしたので
撮らせていただきました
お若くして がんばられて。。
戦争のない 平和を望む書を遺されてます
ちょっぴり 憧れの城主です。。
この後は コンビニで ソフトクリームを買いました
おいしかった~。
ほんとに 暑い日でしたねー。
参考文献
伊勢神宮の謎 高野 澄 祥伝社 平成4年10月25日発行
日本の神話 出雲井 晶 日本教文社 平成8年3月15日4版発行
名城 宇都宮城 栃木県立博物館  発行日 平成18年10月14日
栃木県の歴史散歩 山川出版社 2003年7月31日 2版2刷発行
宇都宮二荒山神社御由緒 書き 宇都宮二荒山神社々務所

宇都宮城 落城

4月27日
慶応4年4月19日 宇都宮城が落城しました
西暦1868年5月11日です
慶応4年3月15日 宇都宮藩主 戸田忠友 新政府によって 滋賀県の乗念寺において     謹慎を命じられる
             朝廷と幕府の間をとりもとうと、幕府の役職を辞任し、京都に向かっていた途中新政府軍につかまったそうです
            えーー?知らなかった~そうなの~??
            藩主不在の宇都宮藩は 激しい論議の末、県六石(あがた りくせ き)の意向により、新政府軍派になる。
            新政府(東山道総督府)に宇都宮への援軍を要請する。
     4月12日  江戸脱走の幕兵 市川において軍議を開く。幕軍は 前中後の三軍に分けて編成。中後軍は大鳥圭介(イケメン)が率いて、宇都宮へ向けて出立。
             新撰組は前軍に属し、土方さんと会津の秋月登之助が引率する。
     4月16日  小山(栃木県)付近で戦闘。宇都宮城の香川敬三は相手をみくびり迎撃、宇都宮藩兵は数時間に渡る戦闘で ほとんど壊滅に近い損害をこうむった。
     4月19日 土方さん 新選組等 前軍は 宇都宮城を攻撃して 夕刻 落城。
            朝11時ごろ  城の東で兵火 があがる
            昼12時ごろ  城の北東で兵火 上河原付近
            午後2時ごろ  城の北 二荒山神社付近 兵火→新田町に 飛び火
            夕刻 宇都宮城藩兵 自ら城に火を放ち 逃げる → 御本丸 炎上
            午後4時ごろ 城の北西 兵火 小伝馬町 付近
            午後6時ごろ 城の南 南新町に 飛び火 
            午後8時ごろ 城の 西部 次々炎上
         宇都宮城の落城に肝をつぶした総督府は 続々と救援隊を送り込む。土佐藩を中心とした洋式部隊が中心で、装備もよかった。
     4月23日夕刻 新政府軍が 城を奪い返し 旧幕府軍は北西へ撤退
              土方さん 足指を負傷
城下3000軒のうち、2400軒以上が焼失
被災者 11000余人
宇都宮城攻防の死傷者合計 300人以上
戊辰戦争で 城下町がこれほど破壊された例は
新潟の長岡市、福島の会津若松市、栃木の宇都宮市 だそうです
現在 宇都宮城跡地は きれいに修復され 城のやぐらが いくつか建っている
憩いの広場になりました
そのためか 今までの なんか 暗い戦乱の跡 という念が消えてきたような気がします
10年くらい前に 4月下旬の夜に 城の跡地へ行った事があります
その頃は ほんとに荒れ果てていて、なんだか 幕軍、新政府軍の 
お互いそれぞれの悔しい思いが 満ちている感じがしました
幕軍も一度は勝利しましたが 結局負けて敗走の憂き目に遭い
新政府軍も 一度目は負け、二度目には勝ちましたが
すでに城は燃えて灰になっていました
城の外は 死体の山。。
戦争はいつの時代も空しいです。。
5月の連休は ちょっとまた 自転車で戊辰戦争めぐりをしてこようと思います
風邪が二日目で ほんとは寝てればいいのに
ついつい 家族がいないから パソコン独り占めで
画面に向かってしまっています。。
おー、熱でぼーっとして なんだか 気持ちが良い~~。。
参考文献 まんがうつのみやの歴史 宇都宮市制100周年記念事業実行委員会
       1996年4月1日発行
       写真集 新選組始末記 釣 洋一編 新人物往来社 昭和56年11月15日
                       

組織の長 近藤さん

4月25日

慶応4年4月25日 板橋刑場にて
新選組局長 近藤 勇 さんが 斬首されました
西洋暦 1868年5月17日 です
同年4月3日に 流山にいた新撰組は 西軍に包囲され
近藤さんが 投降しました
土方さんも 助命嘆願にひた走ったのですが
あっという間に 刑死が決まってしまいました
。。早すぎ~~。
ちょー むかつきます!
っていうか 見せしめ??
私は 近藤さんも疲れていたのもあって
自ら投降したのではないかと
思っています
その場で切腹では 
残された戦う気満々の土方さん達の立場が
ちょっと微妙なものになってしまうと判断して
投降したのではないかと思います
これは 組織としての 考え方ですよね~。
やはり、敵に見つかったら
長が 出て行かないと 収まりません
長 自ら 逃げるのは不可能です。
余計 疑いがかけられます
ここで 副長の土方さんも投降の選択はあったでしょうが
彼は 違う場所へ行くことを 選択しました
テレビや 雑誌の特集でも
この二人のとった行動のことは
二人の選択
というタイトルで よくとりあげられます
私は どっちとは
選べられませんです 
やっぱり
多分 長なら 近藤さんの行動
副長なら 土方さんの行動をとると
思います
子どもの関係のクラブや 子ども会
PTAで いろいろ
長と 副長をこなしてきました
その感想として
やっぱり、長と副長は違う
という結論を得ました。
自分が副部長のときは
自分が嫌われてもいいから
部長が 部員の皆さんに好かれるように
立ち回りました
おー、土方さんと同じやねん、と
そのとき思いました
自分が部長のときは
なるべくどっしりと人の話を聞くようにして
あまり おたおたしないようにしました
副部長の性格をよく見て
その人の得意分野をなるべく任せるようにしました
何か責任を取るような時は
いつでも 自分が辞めてもいい覚悟で
物事の処理に当たりました
どっちが大変と聞かれれば
どっちもそれなりに大変でした
でも 長のほうが やや精神的に楽かもしれません
責任をとって辞任という選択があるからです
(だめなら やめればいいさ、という感じです)
副部長というのは 部長がいない時
部長代理もこなさないといけないし
部長と意見が合わないときも
ぐっと我慢しなければいけないので
ちょっと ストレスです。。
責任をとって辞任もできないですしね。。。
PTA組織では よく みんな 副部長が楽~
って 言いますが ほんとは 副部長のほうが
大変なんです。
なんせ、部長を精神的にも
ささえていかなければいけないのですから。
部長に倒れられたら 自分が代わりをこなさないと
いけないのです。。 それはもう大変な気苦労です。。
女房役に徹しないとなのです。。
私は 長をやっていて 辛い時は
心の中で 土方さんに 話しかけて
組織疲れを 癒していました
組織を引っ張るのは 大変です~~。
組織を守るために 投降した 近藤さん
自分達は間違っていない!江戸の将軍様を守るんだ!
と 北の大地へ行った 土方さん
土方さんの気持ちも ほんと わかります~。
私も 投降しないですむなら
最後まで 生きて 戦う道を選びます
ていうか、自分がくじけたら
江戸の将軍様が 悪者にされてしまうような気がするからです
いきなり 菊の御紋の御旗を 掲げてきた相手のいいなりになって、
日本の政治を渡してしまうのは
くやしいのです。
最後まで戦って戦い抜いて 
将軍の武将には こういう
ものすごい奴がいたということを
敵に 一泡ふかせてやりたいのです
官軍のほうが 利口と言えば利口なのですが
やっぱり それについていけない人々も
いるんですよね。。
天皇のために戦っていたのに
いつのまにか 足利尊氏によって 
天皇家へ あだなすものになっていた 
新田一族の悲劇にも 通じるものがありますな~。
霊能者 玲子さんによると
近藤さんは 多摩のお墓で やすらかに眠っているそうです
激動の時代を生きて 最後 斬首ということに
なってしまいましたが
その生き様は いつまでも 人々に
愛されていくものと思ってます
組織の長として 実に立派で素晴らしい人であったと
私は思います
参考文献 写真集 新選組始末記 釣 洋一編 新人物往来社 昭和56年11月15日第一刷発行
       新撰組を歩く               新人物往来社 平成15年10月26日 

日野顛末記

4月7日
4月4、5、6日と 長女と一緒に 日野で暮らしてきました
色々勉強になりました。。
日野で銀行の口座をつくったのですが 
長女の日野の住所を証明する公的機関発行の
証明書がないため 住所は 宇都宮。
カードは 宇都宮へ送られてくるそうで。。
宇都宮支店で つくっておけばよかった。。
今は 口座をつくるのは 簡単ではないのですね。。
カードも 安易に 即発行って 甘く考えてました。。
一週間 かかるんですね。。
ネットも もっと早く電話しておけばよかった。。
2週間待ちということで。。
アパートに 光 がはいってるんだけど、
今 ものすごく 混んでて 遅くなってしまうんだそうです。。
でも、土地柄かもしれませんが
すごく のんびり まったり 過ごせました。。
5日の入学式の後、駅までの道に ずらりと 
長女の大学と交流のあるいろんな大学のサークルが
特に イケメン くんたちが 並んで チラシを配ってました
うおー!目の保養~~!!
顔がにやけるのを我慢するのが大変でした。。
新歓コンパだ~。
自分の時は 楽しくてあっちこっち出ましたが
いざ、自分の娘ってなると 心配ですね。。
一人暮らしだから、親の目がなく 外出しやすいって
思われるかも知れないし、
電車がある時間に ちゃんと 自分のアパートに
帰って欲しいし。。
新入生だからって 遊び人にからかわれないかとか。。
うー、心配が尽きない。。
4日は 夫の妹夫婦が 八王子のおいしいお寿司を
食べに連れていってくれました
自転車と食器棚もプレゼントしていただきまして
ありがとうございました~。
で、帰りの車の中で 長女の携帯が鳴りました
一人暮らしの高校時代の友達からで、
母と妹が 帰ってしまって さびしい。。
何もかも自分でやらないと 夕飯も食べられない。。
と すでに ホームシックでした。。
がんばれ。。!!
5日の入学式の後、やっと 念願の日野散策です!
歩いてアパートから、土方さん生家 墓所 へ行って
帰ってきました。
全然 霊感は ないんですが
樹齢400年以上の カヤの木 のそばから
なんか 離れがたかったですね。。
土方さんも遊んだのかな~
でも 
こら!罰があたるぞ!!
なんて 怒られたりして。。
勝手に想像してました
墓所には 誰もいなくて 私一人。
少し のんびりさせていただきました。
おみくじは 大吉。
なんとなく 長女もこの土地でうまくやっていける、
大丈夫だろうと安心しました。
墓所には やんわりと 他のお墓の方から苦情が出てるらしいのと
このままでは 一般公開が危ぶまれますようなことが 
注意書きで書いてありました。。
悲しいことです。。
沖田さんのお墓も 命日以外 一般公開しなくなって久しいですものね。。
とにかく歩いて歩いてがんばった3日間でした。
6日は 池袋で舞台を見るので
3時半に アパートを出ました
長女とは 朝大学へ行くのを見送ったきりでした。 
池袋へ行く時、電車の最後部に乗ったのですが
若い女性の車掌さんが きりりと職務をこなしていました
若い方が 任務に忠実に励む姿はとても美しいものがあります
広い窓から レールも見えて とても気持ちよかった~
電車でGO!に 憧れる人の気持ちが判る気がします~
で、舞台を見終えて 電車に乗って上野まで行く間に
中央快速  人身事故発生で 電車が遅れてる
と知りました。。
私が のんびり 舞台を楽しんでる間にそんなことが。。
アパートから 中央特快 に乗ったけど 大丈夫だったのに。。
どうりで 池袋駅も なんか ぴりぴりしてました
金曜の夜だからでしょうか。
駅構内と 外の広場は
人、人、人 で みんな飲み会みたいですね
すごい人でした!
駅では
ホームに電車が入ります。黄色い線の内側に下がって
お待ち下さい。はい!下がってください!下がって!
危ないですから下がって!プオー!!
下がりなさい!!
なんて 車掌さん が 頑張ってました
大変そうでした。。。
宇都宮に夜中11時半に帰ってきました
長女は ちょっとさびしいけど慣れた
と 夫にメールの返事をしてたみたいです
よかった。。
夜 寝る前に 長女の部屋に 誰もいないのを見て
私もちょっと さびしく感じました。。
なんだかんだ 私も頼ってたから
自立しないとな~~。
スーパーアルプス と いなげや どちらが安いか。。
でも コープもなんとなく 安いような。。

先週に引き続き日野

3月13日
昨日3月12日に 再び日野へ行き、
長女のアパートを 無事 決めて 押えてきました~
空いてるので 3月中に引越し荷物運べます~
行きは ものすっごく富士山がきれいに見えました~
アパート2つを見る約束で 合間に
新選組関係のとこ 歩くことができて 写真を撮れました
石田へは今度、長女の自転車を借りて
行ってこようと 思ってます
平日なので 電車は働く方たちでいっぱいでした
お仕事 お疲れ様ですm(__)m
最初 高尾行きの快速に乗ったのに
三鷹でアナウンスがあり
この列車は 武蔵小金井止まり、となります
と突如変更になりました
三鷹で 降りる人が沢山いましたが
私達は急ぐこともないので 乗ってました
武蔵小金井で降りて 次の電車を待っている間に
○○で 発生した 人身事故のため
遅れが出ております
と アナウンスがありました。。
東京で電車に乗ると よく起こることですが。。
このアナウンスを聞くと やりきれなさで一杯に
なるのは わたしだけでしょうか。。
長女は 快速に乗っている間に
耳にイヤホンをあてて 音楽を聴いていたので
都内で電車に乗るときは 突然 変更があるから
イヤホンで耳を塞がないで 
アナウンスを必ず聞いた方がいいよ
と、えらそうに説教してみました。。"^_^"
日野の佐藤氏のお宅は おそばはやめてしまったのでしょうか~
以前 おそばやってた気がします~
くやしいー。。あの時食べておけばよかったよ~
月曜日だったので
どこもかしこも休館日でした
佐藤邸
源さん資料館
新選組ふるさと資料館
日野の指定ごみ袋

漫画雑誌ほんとにあった怖い話 闇検 新選組

11月27日
私の愛読書 漫画雑誌 ほんとにあった怖い話
漫画家・芸能人・読者の恐怖体験特集 オール読み切り本です
朝日ソノラマより 2ヶ月に一回  発行してます
先日 11月25日に 2007年1月号が発行されました
タレント恐怖体験コミックは
実力派声優の 川上とも子さん 「ふりむくな!」
霊能者 寺尾玲子の新都市伝説 闇の検証72は
「藤原定子の謎」 
清少納言が敬愛した中宮 定子を 玲子さんが霊視しています。
私は この雑誌が好きで 平成10年あたりから買っています
恐怖体験を 真面目に漫画にしてありますので 好感が持てました
こころの治療を治癒する先生のことも漫画になってますので
とても勉強になります
怖い話だけでなく、 胸を打つ 心温まる話も数多く掲載されているのも
魅力的です
一番好きなのは 霊能者 玲子さんの闇検 と 霊視解決物語かな~
玲子さんは 才能ある方で いつも 真摯に 霊的相談を解決してらっしゃる方です
その玲子さんの能力で 歴史上の方の 霊視を あちこち
日本全国へ行って 試みているのが 闇検なのです
単行本も発行されています
本屋さんには あまり 置いてないかもです
私も いつも 取り寄せを頼んでます
アマゾンでは扱っているようです~
雑誌 ほん怖 ですが 買っていたので古本がたまりました
去年 ほんとは 取っておきたかったのですが(全部 いいお話なので)
部屋に置ききれない 古い分を リサイクルに出しました
でも 一冊 闇検で 新選組 が 取り上げられた回があったので
その本は 保存しました
平成10年 5月号です (3月発売だと思います)
懐かしいな~ と 表紙を 見て びっくり!!
ななんと その時の タレント恐怖体験話は
大河で 土方さん を演じた 山本耕史さん なのですよ!!
21歳の若き 山本さん。。。
えーーーっ!!ななんだー この偶然 !! できすぎ~~!!
きっと 2004年 大河で 土方さんを演じるということが
この時点で運命づけられていたのかもしれ魔へん。。。
と 思いました
彼も 霊を見たりとか 感じたりする人のようで
家にいて 霊をみたりとか
舞台で 謎の人影をみたりとかしてたそうです
でも 怖くないそうです
生きてる人のほうが 全然怖いって思ってるそうですよ~
(土方さんみたいな人だ~)
玲子さんによる新撰組の霊視ですが 霊感お嬢 視っちゃん も 同行しました。
スタッフ・玲子さん・視っちゃん 全員 新撰組にはなぜか疎い人々だそうで
先入観なしの霊視だそうですよ
伊東甲子太郎 
殉難の地碑 の建つ本光寺前の道路にて霊視
「左肩から首にかけて刺されている。 けい動脈に達してる」
「壮絶なほどの無念さが感じられる」
「しっかりした人。頭の切れがよくて統率力もあるよね。惜しい人を亡くしたと思わせるような人物」
「背は高くてがっちりした人」(顔はよくわからないそうです)
「御陵衛士たちって 育ちがいいから人を疑わないのね」
芹沢 鴨  壬生寺にて
「そんな悪い人じゃないよ」
「育ちがいいお坊ちゃんで、お坊ちゃんゆえに無神経」
「まあ いいや いいや で何事もすます。その鷹揚さというかアバウトさに近藤は我慢できなかったんじゃない?」
「近藤は真面目で努力する人だから。個人的なあつれきもあったみたい」
「誰に何で殺されたかわかっていない。相手の顔も見ていない。布団を一歩二歩 出るか出ないかで息絶えた」
「顔がでかくて目が小さい。髪の毛は薄い」
「お梅さんはべっぴんよね。野心家。しいていえば 小川知子の少し目を細くしたような、いかにも玄人あがりの粋な感じ」
沖田氏縁者の墓 光縁寺 視っちゃん 弱々しくしか感じられないので 詳しくはわからないそう。。
「沖田の姉妹だと思う。血のつながりはあるけど世間に出られない事情があるみたい。ひょっとしたら腹違いとか、あるいは 死亡時の時代的な事情で 沖田の縁者ということをはばかっている感じ」
おみつさんではない。。。と玲子さん
山南敬助  光縁寺
「この人、覚悟してたみたい。つかまってから(ということは脱走があった)死ぬまでの間に覚悟してたから。(死後の状態が) すごく穏やかで静かだよ。途中から周囲と合わなくなった。新撰組のやりかたが こんなことをやってたらダメになる、と思ってたみたい。脱走しても逃げ切れるとは思ってなかった。万が一の望みはあったかも知れないけど。」
「学者タイプでインテリ」
「沖田は腕がいいね。。。」
沖田総司  光縁寺 山南さんから 沖田のイメージをつかんだそうです
「げた顔」 視っちゃん にべもないお言葉。。。 
「こども集めて説教してた」(寺の境内で子どもと遊んでいたというのは、実は。。)
遺体のある東京の墓が非公開なので 今回は 詳しいことはこれ以上わからない
遊女明里 ? 八木邸の前  玲子さんに「もうし・・・」と声をかけてきた
彼女の中に 山南さんへの思いが感じられるそう。。。
「別にさまよってる不浄霊というわけではない。早死にではあるけどふつうに死んでるし。ただ彼女の人生のうちでいい思い出がこの辺にいっぱいあるからだと思う」
目元の涼やかな美人で 控えめでやさしそう
土方歳三 石田寺
玲子さん 視っちゃん 腕組みしたまま なかなか言葉がでてこない
「何もなくはないけど・・・・ねぇ。遠いんだよね。ちゃんとしたお墓(遺体を埋葬した、亡くなった地ではない)ってわけじゃないからね」
「頭のきれる人。底知れない冷たさのある人」玲子さん
「プライド高い。ちょっとナルシストっぽくありません?」視っちゃん
ただし、
「土方本人というより、彼に対する人々の想いやイメージのほうがここでは強くでるから」イメージに多少左右される霊視結果かもしれないそうです
近藤 勇  竜源寺
「疲れてる。この人 戦いに疲れてる」
「理想や信念もそれなりに持っていたんだけど、自分が思ってたより大きく違う方向にどんどんころがっていった」
「帰りたい という感情がある。この土地だったり、夢を持っていた頃に」
傷は 左肩甲骨下にあるそうです
「好きなところに帰ってきたんだから いいんじゃないかな」 玲子さん
竜源寺の墓地には穏やかな空気が満ちてたそうです。。。
10年ほど前ですが 民法テレビ局で
沖田総司を 霊視 ! とかの番組があって
沖田家の仏壇の前に おみつさんのお孫さんでしたか 要氏が
座って 霊能者が 総司の霊視を試みていました
そのとき 総司の外見を
色黒く 体格が良くて 筋肉もりもりの青年
あごがはって目がちょっとはなれたひらめ顔 と 言ってました
私は あらー 香取慎悟ちゃんタイプだねーっ と テレビを見ていて
直感的にそう思いました
私は視えなかったです。。。
霊能者も 総司とは会話は出来なかったような記憶があります
ナマ番組だったかな~
確かに 剣ができる人は 多少 口に力がはいるから
あごがはったりするような気もします
お題提供は お登勢さんでした~
北海道旅行 いってらっしゃーい!!楽しんできてくださいね~\(^o^)/
おみやげ話 まってますよ~~ん!!

幻の名(迷)城 宇都宮城

11月26日 

やっと この件にふれられます

なんだか 失礼があったらしく 宇都宮城の守りの方を
怒らせてしまったようで、これを ブログに載せようと思うと
熱が出たり 体の調子を壊したりで なかなか
載せることができませんでした。。。
目を閉じると 城の足軽さんらしき人がにらむ絵がうかんでくるんです。。。
長女に
ままが 勝手に 手をだして 霊さんの邪魔したんでしょー!
そんなこと言うなんて 宇都宮城の霊に失礼だーー!
きっと 一生懸命守っていたのに どうして僕が文句いわれなきゃ
ならないんだー って 思ってるよ!
と 指摘されました。ごもっともです。。私が 先に手をだしました。。
すいません、 土方さん側なので 攻めた方です。。。
ちょっと 部屋で ラップがあり ぴしぴしなったので
多分 守りさんが 許してくれたようです。。。
激しい戦があった城跡に行く時は 気をつけましょう
負けた側に 敬意を払うといいと思います
先月 10月29日 日曜日 午後1時30分~3時30分
栃木県立博物館にて 講演がありました
講師 千葉工業大学教授 河東義之氏
「幻の名城 宇都宮城の近世と近代」
河東先生は 日本各地で きちんとした天守閣を復興した先生方と
いっしょにくっついて お手伝いしてきたそうで
宇都宮城の復元模型をつくるとき ご協力してくださったのだそうです。
たんたんと 豊富な知識と経験をもとに 宇都宮城のことを語ってくれました
会場は200名で満員でした。多分 宇都宮城に関して 市民のみなさんは
私と同じ疑問を持っていて その答えが知りたくて
先生のお話を聞きにいったのだと 思います。
あれだけ立派で広い城だったのに なぜ今は あんな無残な状態で わずかな土地だけしか残ってないの?
城跡と言えば 立派に復興された 日本各地の
天守閣のある城が思い浮かびます。広い土地と高い天守閣。。
なのに。。宇都宮の城跡は つい最近まで 土地がほんの少し残っていた
程度で ほっておかれたのです
宇都宮の人間の夫は
城跡?知らないなー
あーー でももしかして あの スケートセンターがあったとこかな~?
と 結婚した頃 言ってました。。
えーー ?
知らないのー?
おまけに なにそれー??城跡にスケートセンター?
宇都宮の城跡に対する感覚は どうなっているのだろう
と 嫁にきた私は思いました。。。
今回 県立博物館では 宇都宮城の 企画展を行っています
2006年10月14日(土)~2006年11月26日(日) 
おっ 今日までだ~
そこで - しろとまちの移り変わり ー として
城の古地図や まちの様子 など 色々展示しています
その中に ありました
昭和41年 スケート場と遊園地 御本丸にオープン
あらー 城跡に娯楽施設。。。本当だったのね。。。
明治後期から 大正初期は 写真が残ってますが
釣天井公園 なんて 城跡に名前が ついてました
いや・・水戸黄門で有名な 釣り天井・・・
あれ うそですから・・・見事な作り話ですので・・
地元の人間が 自ら 史実と違う名を 城跡の公園につけてどうする!?
と 叫びたくなりました。
最近は 城跡 に 「清明台」 「富士見櫓(やぐら)」の ふたつの櫓と
周辺の土塁・堀・土塀 が復元される工事が 着々と行われています~
先生のお話ですが
宇都宮城は 資料に多く残されているのは 近世 だそうです
そして 資料を見ると 近世の 平城(ひらじろ) として
宇都宮城は まぎれもなく 名城なのだそうです
下野の城では ナンバー1 ! だそうですよ~
天守閣はありませんが 本丸が城の中心にあり、
二の丸を三の丸が取り囲み、その外側を外郭が同心円状に広がり、
西側には広大な武家地、その外側には町地が配置されていたそうです。
で、発掘で 13世紀のものがでてるそうなので
同じ場所に 脈々と 城が たっていたらしいです
宇都宮城は 藤原秀郷(940年)創建説 と 宗円 (1058~65年)創建説が
あるので、多分 彼らも ここに 居を構えて それを城としていたのでは~
と 推測されていますが
はっきり言って 初期の姿は 幻だそうです
中世・戦国期の500年は 宇都宮氏 の居城でしたが
江戸時代になると 宇都宮藩の藩庁舎となり 譜代大名が次々と
入封しました
宇都宮氏は 二荒神社 の 神職をかねていためずらしい家だそうです
そして 宇都宮城は 将軍の日光参詣の 宿 となっていくのだそうです
だから 城は変わっているらしく 将軍の宿泊が 一の丸。
宇都宮城主は 二の丸に 居住してたらしいです。
門も 普通は 一の門は ますがたのちいさな高麗門なのだそうですが
宇都宮は 一の門が やぐら門だそうで 
先生も 理由がわからないのだそうですよ
そして 堅固な 石垣 が ほんの少しで
弱い土塁が 20メートルの高さがあるそうなのです
将軍の参詣が減ると共に 多くあった やぐらも 減っていったそうです。
よく言われる あの 釣り天井の 本田正純 が 宇都宮城をよりよく改修、
城の外も整えていった というのは
たった 3年しか宇都宮にいなかったのだから 無理ではないか
と 先生が おっしゃていました。
恐らく 江戸のはじめから整備を始めて
本田 のあとの 奥平忠昌 の時 完全に出来上がったのではないか
と 思われるそうです。
この立派な宇都宮城も 戊辰戦争で 燃えてしまいました。。
それから どんどん 土地が減っていきます。。
だから 名城 ならぬ 迷城 なのだそうです。。。
全国でみても 宇都宮だけが 城跡がきれいになくなったそうなのです。。。
先生が いくつか理由を考えてくださいました。。
外観 の 理由 では
  • 天守閣がない城だったか
  • 石垣がなかったから。土塁は崩れやすい

治的な理由では

  • 明治になって 江戸の戸田氏ではなく 藩主が変わった
  • 県庁が 栃木市へ 行った

市民的な 理由では

  • 城主がころころ変わって 町民の間に 城下町としての意識がなかった
  • 戊辰戦争後 自分達の城を守ろうという意識がなかった

私も そうだと思います。。多分 市民性がメインなのでは。。。

最初 陸軍の用地となり 陸軍が 跡地を旧藩主に払い下げた後、

土地はどんどん 旧士族へ貸されたり 町民へ払い下げられたりして

道も出来、あれよあれよと言う間に 跡地はなくなってしまったのです

講演の後、60歳代くらいの男性が 一緒にきていた人に話しているのが

聞こえました。

僕は 宇都宮の出身じゃないから 思うのかもだけど

やっぱり 城跡を守ろうっていう 意識が 市民になかったのは

おかしいと思うんだョ。

・・復元が 楽しみです~

戊辰戦争巡り その弐

8月10日

戊辰戦争史跡巡り その弐

いつもなのですが、史跡巡りをすると、頭が痛くなります。
8月6日の自転車散策も、とても痛くなりました。
ここが、あの場所だーー!
と、感激のあまり、首・肩がはって、血流が悪くなり、頭痛発生・・?
普通なら、感激のあまり血流が良くなり肩こりが直りそうなものです。
よく、塩 といいますが、一度憑いてしまったら、塩は役立たないそうです。
気持ちが清浄な時 念じてまくと、悪いものが憑かないようになるらしいです。
昔の中国の大奥?後宮で、天子様の気を引きたくて、姫様が盛り塩を
入り口の外において、天子様が入ってくるようにしたという話もあるので、
相手によっては、かえって憑きやすくなるのでは?とも思います。
誰か霊能者が、葬式の後に塩まくよりは、葬式行く前に塩まいて、
憑かないようにしたほうがいいと、言っていました。
過去、私も、頭痛の後にいくら塩まいてもだめでした。
お気に入りの水晶の数珠を持っていけばよかった~
六道 戊辰役戦死墓(ぼしんえきせんしはか)の、道路を東に行くと、報恩寺 があります。
山門が美しいと、有名です。臨済宗。
もう頭痛がんがんでしたので、写真も撮らず、ひたすら低姿勢で、言い訳しながら
お墓参りさせてくださいー、何もしませんからー
新撰組が好きですが、基本的には戦争って大変だったなーと思ってます。
霊能力ないので、何もできません、すみません。
と入っていきました。
本堂の正面右側に、戊辰薩藩戦死者墓 という、白い大きな高さ2メートル幅1メートル厚さ70センチくらいの
立派な、みかげ石?の墓石があります。
官修墳墓だそうで、見るからに、
あー、明治政府が立派に建てたんだーというものです
その向かいに、鳥居があって、戦士烈士の墓があり、薩州、長州、大垣藩の戦死者名が
列記されてます。寺の境内に鳥居があるってことは、神仏分離令がからんでいるのか、
神に祭上げて、祟らないよう封じ込めているのか、よくわかりません。
幕府軍側の戦死者の遺体は道路上に遺棄されたままだったそうなので、
付近の住民の方々が、道路わきに埋葬してくださいました。
これが、六道口の道路の墓です。ここも鳥居があります。
ここの写真は、丁寧にごあいさつして、一枚だけ撮らせて頂きました。
私は、幕軍よりの人間なので、許してもらえると勝手に思って・・
同じ人間、日本人なのに。どこでも、同じですね、激戦地では。
きっと、地元の方々は、新政府軍の目を盗んで、こっそり埋葬してくださったんでしょうね。
ありがとうございます。
でも、新政府の役人さんも、知っててもあえて何も仕置きしなかったんじゃないかなー
と勝手に想像します。そうであってほしいです。見つかって罰せられたという話も
伝えられてないので、良かったーと、思っています。
報恩寺に、幕府軍の土饅頭墓があると思っていたのは、記憶違いのようでした。
官軍のお墓しかありませんでした。
あとで、頭痛がない時を狙って再訪問したいと思います。
美しい山門も、写真を撮るつもりです。
記憶って、たった数年の間に変わってしまうんですねー
やっぱり、その日その日できちんと記録に残しておかないとダメですね。
特に史跡は、きれいに修復したり、周りの家の様子でがらりと雰囲気変わります。
次は、近くの光琳寺へ行きました。報恩寺の北方面に当たります。浄土宗。
ここも、本堂正面右側に、鳥居があって、官修墳墓があります。
これは、土饅頭で、上に墓石が置いてあります。
記憶では、本堂正面左側に、幕軍の戦没者の土饅頭があった気がしてたんです。
で、一生懸命探しましたが、ありませんでした。
初めて見た時は、ただの土饅頭で、2回目見に行ったときは、屋根がかかっていた気がしてたんですが
記憶違いだったのかなー・・・・うーん、夢でもみたのかな。。。
幕軍の墓は、確かにありますが、平地で、土饅頭ではありません。
きれいな墓石も新たに建てられていました。
官修墳墓と、幕軍墓が、ごちゃまぜになってしまっていたのでしょうか。
でも、うーーーん、あの、土饅頭はすごい衝撃で、確かな記憶と思っていたのですが・・
残念です。
報恩寺と、松ヶ峰門の間に激しい戦闘があったそうですが、今はもう、家やビル、学校などが
立ち並び、報恩寺の前の道路からは、松ヶ峰門の今も残る松の木は見えません。
松の木のそばに高いビルがあるので、大体の目印になりますが、地図で見たり、目の感覚では
約300メートル離れている感じがします。
300メートルなら、大砲の射程距離でしょうか。
報恩寺から、東に、松ヶ峰門跡があります。
当時、人家などなければ、まっすぐ行った方向なので、狙いやすいかも知れません。
慶応4年1868年4月23日早朝から夕方まで、ここ六道で激しい戦いがあったそうです
宇都宮城には、すでに19日、旧幕府軍が入っていました。
この城を奪回しようと、新政府軍の救援隊(土佐藩を中心とした洋式部隊)が、
攻撃をしかけました。
そうですね、道が合流してるし、ここで、食い止めないと、新政府軍は一気に城へなだれこんで
いくでしょうし、幕軍はきっとこの六道を死守しようとがんばったんだと思います。
新撰組の土方さんは、このときどこにいたかはっきりしないそうですが
宇都宮戦で、足指を負傷してます。
二荒山神社にいて、指揮をとってたと言う方もいます。
この23日の戦いではやはり、松ヶ峰門にいたでしょうか。
23日夕方、城は新政府軍に奪回され、幕軍は北西へ撤退し、日光方面を目指し会津へ行きます。
宇都宮市内は、武家屋敷跡のなごりで、道がほそく、くねくねしてます。
曲者をすぐ、おいつめられるようにしてあるようです。
今も、残っているので(いや、ぜひ、永遠に残してほしい。もっと宣伝もしたほうがいいと思う)
自転車で走っていると、城があそこだから、こうに道が入ってーと、
江戸の街の様子が想像できます。
当たり前のことでしょうが、ここ六道で激戦があったとは、今は全く感じられません。
学校あり、人家あり、商店がありと、普通の住宅街です。
宇都宮で、趣味で歴史を研究してる人が
宇都宮の人、六道の戦いも、新撰組の土方がここに城攻めに来たなんて、
一切知らないんですョ!戊辰戦争の激戦が宇都宮であったって言うのも
知らないですからねー。
と、嘆いてました。
確かに、先祖代々宇都宮在住という人は、私も知りません。
よその町や県からの人が圧倒的に多い土地柄です。都会なんですね。
私も埼玉出身。夫の両親も新潟出身です。
でも、一方で、戦争の記憶っていうのは、忘れたい人もいるのも
事実です。
私は、戦争の経験がないので、のんきに歴史を調べたりできますが、
体験した方にとっては、非常につらいものですよね。
光琳寺を最後に帰宅しました。
吐き気がする頭痛で、寝込みました。土饅頭もなかったのもショーーック!
お盆で、仕事が休みになったらまた行きたいと思います。
参考文献 まんが うつのみやの歴史 宇都宮市制100周年記念事業実行委員会
       うつのみやの歴史再発見 塙 静夫 随想舎
思い出しました。1996年の市制100周年イベントで、我が家の長女は小学校の管楽器クラブの一員として、
うつのみや市役所時計台お披露目の式で演奏したんだっけー。
1868年の戊辰役から128年、平和っていいですねー。
8月9日

デスノート TVアニメ化

一昨日8月7日発売のジャンプに書いてありました
日本テレビ 10月3日より 毎週火曜日深夜
デスノート TVアニメ放送開始!!   
やはり、深夜!?水曜19時アイシー終わるの?と思ってたら違いました。
とうとう~。。。。。いや、とても楽しみなのですが、
原作と結末は同じなのでしょうかーー
アニメのLは、とてもかわいらしい。
どこまでやるんだろうー
高田様などは、登場するのだろうか~可哀想・・・
朝、ズームインで、また色々予告が見られるかもなので、
嬉しいです
リボーンもアニメ化と、長女が言ってました
こちらは、朝。
ーーー時間帯があるんですね、それによって。
てにぷりも、また新たに放送してくれないかなー
昨日、甲子園で、文星芸大付属高校(旧 宇学)が、とても良い試合をして勝ちました。
おめでとうございます!相手チームも強くてすばらしかったです。
で、昨日、勝った~と、浮かれて仕事場から帰る時、近くのコンビニがなんか変。
警察官がいて、立ち入り禁止になって、鑑識?の人達が、TVドラマでよく見る白いぽんぽんを
入り口で、ドアなどに、ぱたぱたやってました。
空には、報道?ヘリコプターが旋回。
強盗が入ったらしいです。
TVニュースも、新聞も何ものってなかったから、よくわかりません。
こんな身近でねー。真昼間。人通りもあるのに。コンビ二って狙われやすいのでしょうか。
強盗なんてする前に、お金で困っているのなら、消費者センターに相談したほうがいいと思います。
なんでも、自分ひとりで解決しようとするから、追い詰められて考えが暗いほうへ
イってしまうんですよ、きっと。
独身時代、出張先の駅で、切符買おうとしたら、
おじさんが、
帰りの電車賃がないので、200円ください
と、私に言ってきたので、
私、今、小銭ないんですよ。
そこの駅交番のおまわりさんに言えば、きっと親切に貸してくれますよ
と答えました。あとから、それは、寸借?サギだと聞かされ驚いた次第です。
今もいるそうですねー。
私は、困った時は、他人より公的機関に頼るという考えなので、
なぜ、あのおじさんが赤の他人にすがるのか、とっさに理解できなかったのですよ。
人から小銭をもらって、それを生活費にあてていたのでしょうかー
お金がない=詐欺をする わたしの脳にはこういう考えはないので、とても不思議です。
お金がない=市役所へ行き相談する でないと。
でも、こういうえらそうなこと言っておきながら、
ライトはすばらしい!!神!!!
なんて叫んでいるのだから、人間の脳内って、わけわかんないです。
8月8日

戊辰戦争史跡巡り

一昨日8月6日、宮まつりでにぎわう宇都宮市内を、自転車で走ってみました
お盆が近づくと、なんだかいつも、気分は戊辰戦争です。
人通りがあまりないだろうと、午前中の探索です。それでも混んでました~
思った通り非常に暑くて、お水持参で正解。
街は、祭りの準備で活気があり、にぎやかでした。はっぴ姿の人や、
屋台の準備の人が忙しそうに歩いてました。
二荒山神社~宇都宮城建設地~おおいちょう~松が峰門跡~
六道口戊辰戦争戦死者の墓~報恩寺~光琳寺
二荒山神社
幕府軍が陣をしき、社殿は兵火で焼失しました
今の社殿は明治10年1877年の再建だそうです。
宇都宮城

ただいま工事中で、城を復元するそうです

以前の荒れ果てていた城跡も良かったです「城破れて山河あり」みたいで。。

松が峰門

城の入り口で、ここと六道口間で激しい戦いがありました。

六道口戦死者の墓

宇都宮は官軍でした

捕えられて刑死した会津軍兵士と、この地で亡くなった幕軍兵士を祀ります

8月7日

紫陽花

まだ、我が家の紫陽花は咲きません。
今咲かないのだから、もう、今年は多分咲かないでしょう。。
実家の父に言ったら、
去年、きっと、花が終わった後、茎を切りすぎたんだろう
と教えてくれました。
根元から切ってしまうと花は咲かないんだそうです。
今年伸びた茎から、さらに来年茎が出て、そこに花がつくんだそうです
そうなんです、いつも、めんどくさくてほっとくんですが、
去年、ばしばし根元から切ったんです、
枯れ枝がみっともないと思って。
(たまに、いいことをしたと思うとこの結果です・・・・)
以前、大工さんが
しみのある茎に花が付く
とも、おっしゃってました。
父が今年、いつも行くアジサイ園に行ったところ、
入場料が半額だったそうです。
入ってみたら、アジサイが、花の盛りにもかかわらず
ちょびちょびとしか咲いてなかったので、
帰りに、園の人に聞いてみると、
去年、花の終わりの時期に、園も閉園するため、
お客さんに、はさみを持たせて、
花摘み放題をさせてしまったんだと、言っていたそうです。
お客さんは、茎の根元からちょきちょき切って
花を持って帰ったそうなので、
今年、ほとんど咲かなかったんだそうですよー。
デリケートなんですね、アジサイって。。。
ひまわりも、種をまいたのに、日照不足かなー
全然芽がでませんでした。
1本出たけど、枯れてしまいました。くすん・・・
種の中身がからっぽで、2つに割れて地上にあったので、
団子虫が食べたんだとも思います。。。
8月6日

呪詛

昨日朝、久しぶりに、気持ちが悪くて(お酒も飲んでないのに)
トイレで、はー 風邪かなーと考えていました。
頭痛もなく、吐き気だけなんて、ここ何年もないことだったので、
ふと、長女が、数年前、おなかが痛いーー
と言っていたのを思い出しました。突然で、たいしたことないと
判断していたら、結局、手術になってしまい、
きっと、ものすごく気持ち悪くて痛かったんだろうなー
気の毒なことしたなー
もっと早く、きちんと医者にみせれば良かったーー
とその時の事を思い出してしょんぼりしてましたら、突然、私の頭の中に、
呪詛・・・
という言葉が浮かんできたんです。
えっ、チョッと待ってよ・・・そそんな、トイレ中に・・・
確かに昨日、ほん怖の玲子さんの霊視本
「闇の検証6」  を買って読んではいましたが・・なななんで~
そこで、よーーーく、その頃のことを思い出してみました。
その年の初め、夫運転の車が直進中、交差点で右折の対向車に
衝突され、夫は軽症、助手席の母が肋骨骨折。車は大破、廃車。
という、事故が起きました。
相手は20代のおとなしい男の人で、無傷、車も修理可能な状況でした。
こちらの車が年式が古かったものですから、最低の査定価格となってしまい
中古車すら買えないという補償金額でしたので、
夫と両親が納得いかずに、ずいぶん相手側ともめました。
私は、そんなもう、命が助かっただけでいいじゃーん、
そんなに責めなくたってー
と、思っていました。
私も一度文句を彼に言ってしまいましたが、、、ごめんね。。。。。
私も、母の入院で、家事と仕事の負担が一気に増して、
死にそうなくらいの状況になってしまったんだよーーー。
夫はなかなか納得せずに、おとなしい彼にずいぶんびしびし交渉して
ましたので、彼と両親も疲れてしまったんでしょう、
とうとう彼側は弁護士をたてて、
彼との直接交渉はできなくなりました。
やりすぎなんだよー
私は思いましたが、言いません。
夫は被害者意識の強すぎる亡者のようになってましたからねー。
あれはあれで、何か取り憑いていた気がします。
今、思い出してもやだやだ・・怖いです
で、その時はなんとも思いませんでしたが、
今、思い起こすと、彼はA県人で、名字の一字に
の文字が入っている、実にめずらしい名前だったんです
(夜神ではありません、魅上でもありません。。デスノねたです)
A県で、神といったら、、、、お○勢さん関係、、、?
で、さらに、トイレの中で、よーく考えると、
名字に入ってる動物が、白いんですが、
凄い目で私をにらむ映像が浮かぶんですよ、頭の中に、、
それについてるらしき、裃着用のチョンマゲのお侍さんも。。。
えーーーー、勘弁してよーーーーー
と思いました。
恨むなら、夫を恨めよーーーー!
どうして、可愛いこどもにくるのさーーー
怪奇もので知識を得たんですが、先祖にそういう、
呪術が出来る方がいると、現世の子孫が痛めつけられた時、
代わりに、相手を攻撃するんだそうです。
その名字は、恐らく、神が入っているので、ご先祖の功績により
偉い方から下賜されたものなんでしょうね、
自分でつけたら、ばちがあたりますからね、きっと思うに。
ご先祖は、ものすごーく、その名字と自分の一族に誇りがあるはずです。
確かに、彼もいい品がある人でした。穏やかで、頭もよさそうでした。
夫が、随分責めたものだから、彼のちきしょーと思った念が夫に向いたんだと思います。
でも、夫は、厄で、ちゃんとお払いを受けてたんですねー
で、守りが堅く、攻撃できなかったので、攻撃可能な跡取りの長女のとこへ行って
しまった気がするーー。
長女も、昔なら厄払いする年を過ぎてたんですが、してなかったのです
お医者さんが、この若さで何が原因でこうなったかわかりません・・
と、長女の突然の病気のことを言ってました、、
うわーーー、呪詛だったんだーーー
生きてる私達も、あんまり悔しい思いをすると、知らず知らず生霊を
とばしてるらしいです。
トイレの中で、引き続き、、動物とお侍さんに、しみじみ言い訳してみました。
確かに、こちらも言い過ぎました。
でもさー、呪詛って、かけたほうへも返っていくっていうし、、
神の名がついてるのだから、そういうことしないほうがいいってわかってるでしょう~
私も素人だけど、そういう方面、きちんと真面目に研究してるし、
決して、そちらを馬鹿にしようと思って、事故の補償をめぐって対立してた訳じゃ
ないんですよー。
夫の方の家系も、神仏を崇拝してるし、交通事故っていうのは、
後々もめるのは、これは当事者の問題で、仕方のないことだと思うんですョ。
現世に生きてる人間は、決して完璧ではないので、そこのとこわかってください。
私のほうでも、神社を崇拝してる家系ですし、どうぞ、子供に矛先をむけるのは
やめてくださいねー
あなたの大事な子孫ともめてたのは、夫で、
私と子等はむしろあなたの子孫に同情してたんですョーー
わかってくれたのか、動物と、お侍さんの後ろ姿が、映像で頭の中に浮かびました。
そういえば、今年はじめ、我が家の神棚を見て、
アレっ、天照大神のお札がない!と、思ってました。
ここ何年も買ってませんでした。
で、実家の父は偶然、今春旅行で、伊勢神宮へ行って来てたんです。
御父さんー御札買ってきてほしかったよー
おーそうかー、ゲゲに黙って旅行へ行ったからなー今度連れて行くよー
やはり、地元の、夫が厄払いを受けた神社へ、お札を私が買いに行って、
これは、終わるのだと思います。
わたしの気持ち悪さは、風邪だったようで、薬を飲んだら楽になりました。
良かったー
トイレねたで、なんだか、銀魂みたいです。。
私は、生きてる事こそをラッキーと考え、相手を敬い、
自分が被害にあっても決して相手を憎まず、
心の中では許して、何事も交渉にあたるといいと思う・・と
夫に言いたい。。。
亡者より、生者の念のほうが怖いんだぞーーー
交通事故は、ぶつけたほうも、ぶつけられたほうも悲劇です
保険会社さんも、とても大変そう・・・
お金がからむと、色々とねー
誠意、誠意って、もめてる相手にそんなのんきな事言ったって・・
敵意と憎悪のなかで、誠意が保たれるなんてことはないですよ
井沢氏の本にも書いてあったです。
8月5日

宮まつり

宇都宮市の夏祭りで、今年も8月5・6日の土曜・日曜と行われます。
駅前通りを、交通規制をかけ、夜9時まで、みこし、おどり、よさこい、和太鼓
おはやし、マーチングパレードなどなど、たくさんの団体が芸や、演技を
披露する、夏の一大イベントです。
食べるところや、屋台も沢山でます。
あーー宇都宮に夏がきたーーーという感じです。
マーチングパレードに、我が家の子等は、小学生の時、
平成9年から16年まで連続8年間出場しました。
長女は4年間、次女は5年間の参加です。
私も楽器運搬やら、つきそいやらで、毎年、行動を共に
していました。
夕方5時にスタンバイして、開始の合図とともに、パレード出発。
県大会前の度胸だめしといった感じで、市民がたくさん歩道から見学する中、
45分間、車道で、歩きながら、休みなく吹き・叩き続けます。
夕日のまぶしいのと、アスファルトの熱と、楽器の重さと、空気の熱さで、
小学生は顔を真っ赤にしながら演奏します。
交差点で、ドリル演奏も披露します。
晴れ舞台ですから、緊張しながらも、みんな暑さを我慢して演奏をやり通します。
車が普段通ってる車道を、車を入れないようにして堂々とパレードできるなんて、
年1回の晴れがましい舞台です!
でも、暑くても、いいんです、そのまま終われば・・・
なぜか、なぜか、雨が降るんです・・・!
多分、スネアや、バスドラ、マルチなど、パーカッション類が雨を呼ぶのだと思います
平成12年、13年、パレードが終わるという時にすごい雨がふりました。
今でも語り草になってます。
空が暗くなって、あれっ、ぽちぽち雨かなーと思っていたら、
バケツをひっくり返したようなとんでもない雨が、いきなりどばどば降ってきたんです!
ものすごい雷雨でした。目の前でやきそばの屋台の屋根が吹っ飛んで行きました。
スタンバっていた神輿は、滝の水を浴びてる状態で、
みこしの上にのっていた子どもが目をつむって必死に耐えていました
雨は横殴りで、滝のよう。3メートル先が見えません。
ドラム類にビニールをかける暇もなく、
低学年の子を守れーーー!非難しろーーーー!
きゃーきゃーこども等は泣き叫びながら、店舗の軒下で、雨宿りをしました
いやー、、、その豪雨のなか、さすがだったのは、高校生マーチングバンドと、
一般マーチングバンドです。
お客様も祭り役員も避難して、誰も見物人が居ないのに、
楽器も衣裳も、もちろんパンツもずぶぬれの状態で、
お互いの音なんか聞こえないだろうという、雨と雷の中、落雷の恐怖もものとも
せず、彼等・彼女等はパレードを続行し、吹き・叩き続けたのでした。
その3年後、二つの団体の長に、偶然その時の裏話を聞けました。
高校生バンドは、
小学生が逃げてんだから、高校生は逃げたらあかん!
と、意地をはって、心の中で、
木管がだめになる~~~
と泣きながら、パレードを続けたんだそうです。
一般バンドのほうは、
高校生が逃げずに演奏してんのに、オレ等一般が演奏やめて
避難するわけにいかないだろう!
と、やはり、太鼓の面が心配で泣きながら
意地をはって演奏を続け、高校生が演奏をさすがに止めた5分後に
終わりにしたんだそうです。
ぶはははh・・・・聞いてて大笑いしてしまいました!
なんですか、団長の意地の張り合いですか~~
マーチングは、ドラムメジャーが演奏停止の合図を出さない限り、
演奏を中止することは出来ません。
ドラメもさぞかし、つらかったことと思います・・・
そんな、こんなも楽しい思い出です。
今年は雨降らないといいですねー
去年は確か、パレード開始15分後に雨降ってきたって言ってたなー・・
吹奏楽は今日大会なので、次女は明日祭りに行くと言ってました
去年の北海道旅行 時計台
富田ファーム 白い雲
夏の北海道よかった またのんびり行きたいです
8月4日

近頃のウサギのルル君

ルル君も暑そうです。日中はケージの中で留守番なので、狭くて
気の毒に思います。黒いし、太ってるし、、、、
長女 毛を羊のように刈ろうぜー
次女 そんで、その毛を売ろう
全員 誰が買うんだい!ってか、何に使うんだい!
夕方、家の中を放し飼いにすると、玄関で、のべーっと、スフインクスのように
おなかをタイルにつけ、涼んでいます。
この間、自治会長さんが、
おっ、うさぎがいる!
と、見破ったのはさすがです。
みなさん、普通は、
? ねこ・・・・?ですよね・・・あれっ でも・・・ままさか! うううさぎーー?
はは放し飼いですかーーー!?
と、びっくりされるのに。さすが、年の功。
ルル君は、近頃、体重計がお気に入りで、
私が体重計に近づくと、
まま、やって、やって、
と目で訴えます。
んもー、はいはい、と、スイッチを入れ、デジタルの数字が000になった後、
よいしょ と、ルル君をそこに乗せます。
2.0 2.5 0.5刻みの体重計です
はーい、ルル君は2,5キロでーす!
と私が叫ぶと、満足して体重計から降り、たかたかとどこかへ行ってしまいます。
動物病院ごっこ?
ルル君は、お客様が大好きで、玄関で人の話し声がすると、
寄ってきます。
お客様が、まーうさぎ、と気付くまで、ちょっと離れた所から
小首をかしげて、お客様を見ています。
お客様が、まーうさぎ。と、気付いて手を伸ばし彼にさわろうとすると、
彼は、くるっと、きびすを返して、おしりをぷりんとさせながら、奥の部屋の方へ
ゆっくり行ってしまいます 。
あん!触れなかった!
と、お客様をやきもきさせる作戦なのでしょう・・・なんて可愛い・・
子等に話すと、
むかつくー
ぶってる~~
と非難ごうごうです
いい香りがするお客様がいらっしゃると、すぐそばに行きちょこんと座っています。
なでて、なでて 作戦でしょう。
小学校のウサギ達は、人間が近づくと逃げますが、
ルル君は違うんですよねー。
いじめられたことがないためでしょうか。
でも、外から、鳥のばさばさっーとする羽音や、からすの声がすると
固まって、ジーっとやりすごしています。
本能ですね
相変わらず、目をつむったとこは見れません。
3ミリぐらいあけてるのは良く見ますが、
目を閉じて寝てください、たまには。
8月3日

戦争

母が、その昔、私の幼い小3の次女を見ながら、つくづく、
終戦の時、私も小3だったけど、なんで、戦争のことはっきり覚えているんだろう
普通は、小3といえば、こんな幼くて、なんでもすぐ忘れちゃう年だよねー
と言ってました。
後日その理由が判明。
読売新聞で、阿久 悠さんが書いておられましたが
昭和11年あたりの生まれの人は、戦争中に生まれ育った
年代なんだそうです。
だから、他の年代の方に比べ、自分の記憶にすごく戦争というものが
インプットされているんだそうです。
そうなんだ・・・・
母は、父もそうですが、あまり戦争のことは語りませんでした
なんだか、すごくいやなんだそうです。
二人とも田舎の農家だったので、食べ物には困らなかったらしいです。
大都市ではなかったので、空襲の心配もなかったようですが、
防空壕は掘って、空襲警報が鳴ると頭巾をかぶってもぐったようです。
母は、授業を中断して、飛行場に石を並べにいったとか行かないとか・・
言ってたような気がします。
戦争へいった近所のおじさんが、中国(満州?)での話をしてた とも、
言ってました。
母の伯父・・私の祖父の弟は、戦後、病気で亡くなったって言ってました。
戦争中は、通訳だか通信だかなんだかしてた頭のいい人だったらしいです。
私の親戚には、戦争で、出兵して亡くなった方はいませんでした。
結婚して、夫の父の上から2番目の兄が、戦争へ行き亡くなったと知りました。
新潟の実家には、軍服を着た青年の写真が飾られていました。
山の中の田舎なのですが、こんな田舎にも、無常に召集令状はきたんだなー
と、しばし、写真から目がはなせませんでした。
父の話によると、跡取りである長男にはこないんだそうです。
私の小学生時代は、やはり、日本が経済の成長に目を向けていて、
あまり、戦争について、公で語るというのはなかった気がします。
みなさん、ついこの間の忌まわしい記憶なので、思い出すのが嫌だったんでしょう。
でも、私の小3の時の担任の女の先生が、母の実家そばの出身でしたが、母と同年代で
熱心に、戦争を、道徳の時間とりあげていました。
あの頃は、授業はかなり先生の裁択が自由だったらしく、
戦争については、全然取り上げなかった先生もいた気がします。
絵本やお話も出版されるようになり、先生は
上野動物園の象の話の絵本を読んで聞かせてくれました。
えさがもらえない象が飼育係さんの前で、精一杯芸をして、
ごほうびにえさをもらおうとする、有名なお話です。
始めは順調に読んでいた先生も、
やせこけた象が芸を披露するあたりで、
うっ、と顔を隠して後ろを向き、
ごめんね、先生、かわいそうで読めない
と言って、泣き出しました。見ていた私達も思わず泣いてしまいました。
象もかわいそうでしたが、戦争って、先生がないてしまうほどつらいもの
なんだ!
と、私達クラスメイトの心に残りました。
ジャンプでも、はだしのゲンが連載され、私は読んでました。
地域によっては、子どもも過酷な経験をしたのが、すごく気の毒でした
ほん怖の玲子さんが、原爆で亡くなった方の霊視をして、
原爆が落ちた瞬間で、意識が止まってるとおっしゃってました。
そうですよね。・・・
まぶしい、あれは何?と思った瞬間
きっと、お亡くなりになったんですよね、自分が死んだっていうのも
分からないのではないかと、とても、お気の毒です。
宇都宮へ嫁に来て、街の中へ行った時
ある場所の上空が、晴れてるのに曇ってるように見えました。
なんていうか、黒っぽいもやがかかってるっていえばいいんでしょうか
暗いんです・・
どうして?と思い、調べてみると、そのあたりは、空襲を受けて、市民の方が
多くなくなった場所でした。
今でも、そこを通ると、空が暗いなーと思います。
でも、今は少し明るくなった気がします。
時が経つと、だんだん浄化されてくるんでしょうか
本当に今も戦争が、国によりありますが、
亡くなった方のご冥福をお祈りするばかりです。
てぽどん、再発射しないよう、力を込めて今、念じてます!!!
がんばるぞー!
8月2日

八朔

はっさく   昨日8月1日思い切って調べてみました
陰暦8月1日
と出ていました。陰暦だと、もう秋ですね~。
去年の夏、北海道旅行へ行きました。
8月16日~8月19日 お盆後の格安ツアーです。
19日が函館五稜郭の日程でした。
私にはわからないのですが、
ふるさとから遠い地で亡くなった方は、お盆にはどうしているのでしょう~
この世に恨みとか、執着があると、魂は、亡くなった場所に留まる
そうですが、お盆に実家で供養とかしてくれると、どうなんでしょうねー
お盆は、あの世にいる方々が、家に帰って良い日だとも
聞いております。地獄の釜のふたが開く日。
だから、地縛霊さんたちも、帰りたいと思うと、実家に帰れるような気も
します。
霊界のシステムはわかりませんが、
お盆の後の五稜郭は、なんだか、すっきりしていた感じがします。
幕軍が立てこもった場所ですから、皆さん多くは、恐らく江戸近辺の出身
でしょう。
私達、ツアー客も全員首都圏の人でした。(宇都宮は違うかな~)
多くの方がお亡くなりになったり、無念の思いが渦巻いているであろう所
なので、気を引き締めて行ったのですが、
なんだか、すごく好意的な雰囲気でした。
降ってた雨も止んで、
江戸のほうから良く来た、よく来たなー
という感じが、五稜郭に漂っていました。
函館のお寺さんが、お盆供養してくださったからでしょうか。。
学生の20歳の頃、旅行で五稜郭へ行きました。
その時は、五稜郭タワーに飾ってあった土方歳三さんの写真に
一目ぼれをし、浮かれまくっていたので、
その地ではなんにも感じませんでした
どうして、京都の新撰組がここで亡くなってるの?
鬼の副長って、、、全然鬼じゃないじゃん!まじかっこいい!
洋装がすてきーーー!おしゃれーーーー!!
なんだかんだ、顔に惚れました
(土方ファンの、多くの声より)
今、ふと思ったのですが、やはり、五稜郭って幕軍の念が
こもってるような気がします。
もしかして、勘の強い薩摩・長州の方、あそこの中に
入れないのではないかしら・・・
敷地への入り口も、なんか、圧迫感がありました。
城だから、当然でしょうが、敵か味方か識別されてる感じが
しました、、見えない誰かに。。
函館山も、夜景見るためバスで走っているとき、木立の中から
敵か味方か見張られてる感じがしたんですよー、、
函館山、碧血碑がありますから、官軍のお墓もありますし、
いろいろ大変そうです。
ラジオ栃木放送の阿久津アナがおっしゃってましたが、
地獄の釜のふたが開くのは、ナス畑だそうです。
だから、農家の人は、その穴に落ちないように
盆の前だか、盆の間か、ナス畑へ行かないで、
骨休みするんだそうです。。。。。面白いお話です
あーーーびっくりしたーーーーー!!!
なんだか、きれいに変わっていて、やっと自分のスペースへたどり着きました
スタッフのみなさん、きれいにしてくださってありがとうございます
お陰で、目が覚めました(^_^)v
現存兵糧庫の内部(期間限定の公開中でした)
23年前より、外装がきれいになってました
塗り替えたとのこと。
玄関飾り
外側から見た五稜郭の一部
8月1日

別れは突然やってくる

おととい7月30日朝、北のアパートから、話し声がすると
思って見たら、住んでる方のお引越しでした。
そこは70代後半位の女性の一人暮らし部屋でした。
そういえば、ここのところ、お見かけしなかった・・
梅雨で、掃きだし窓もしめっきりでした。
てっきり、病院へお出かけか、家の中にいらしてると思っていたのに。。
まままさか・・・・
引越しは、見たこともない人たちばかり。
冷蔵庫どうする、誰がもらう?
そんな声も響いてます。
引越しの手伝い人の中に、住んでた奥さんはいません
・・・どうしちゃったんだろう・・・・
ここに越してきた10年前は、奥さんが手伝いの皆さんに
ありがとねー、ありがとー、助かるわー
と、明るく響く声で指示を出してたのに。。
もう何年も前、立ち話をしたときに、教えてくれました。
近くの、偶然うちの仕事仲間の方の奥さんが、
そのおばあさんの一人娘でした。
おばあさんが住んでた県北は、交通の便が不便で
足が悪いおばあさんは、医者へ通うに便利と
この宇都宮へ越してきたんだそうです。
その部屋へは、娘さん、娘さんのご主人、お孫さん、
ひ孫さんが、遊びにきて、いつも、とても
にぎやかで明るく楽しそうでした。
我が家の娘達にも、優しくしてくださり、
小柄で笑顔のすてきな元気の良い明るい方でした。
戦争中か、戦争直後にご主人を亡くされ、娘さんを一人で
育て上げ、娘さんが宇都宮に嫁に来てからは、ずっと
一人暮らしをされてたそうです。
私の親戚には、戦争で夫を亡くした人はいないので、
実際に、そういう方にお会いして、衝撃を受けましたです。
戦後61年、夫もなく・・よく頑張ってこれたなと、
思います。。。
30日に残っていた荷物も、私が31日仕事から帰宅したときには
すっかりなくなって、大家さんが見回りをしていました。
引越しの方、大家さん、近所の人・・
誰かに聞けば、おばあさんの消息ははっきりわかるでしょう。。
でも、あえて聞かないことにしました。
一人娘さんも入院してしまったので、
おばあさんは県北へ戻り、自分または、夫の兄弟のそばの
ホームか病院へ入院したんだ・・・と、私と娘達は推理しました。
アパートの支払いも大変になったので、
8月にならないうちに、親戚が来て、引越ししたと、、
きっとそうです。
以前も、気付かなかったですが、3日間入院されてたことがあります。
誰か、送り迎えする方がいるんでしょう。
最後となった立ち話は、我が家の庭のお花についてでした。
あらー。奥さんのトコよく見るとお花がイッパイ咲いてるのねー
いえいえ、へたで、すぐ枯らしちゃうんですョ。
奥さん、上手ですよねー、お部屋のベランダ、いつもお花イッパイで
きれいでしたよねー
医者に止められてね、重い土や植木鉢持つと、ひざに悪いって言うんで、
やめたんですよ。
庭に木や花があるっていいですよねーほっとしますよ
それじゃ、どうも、失礼します。
いつも綺麗にお化粧なさってました。その時は
少ししんどそうだったのを、覚えています。
やっぱり、80代前半だったのかなー。
こんな風にお別れするとは思いもかけませんでしたが、
きっと、遠いどこかで、元気にやってらっしゃる・・
おばあさんが住んでた部屋の
カーテンもなく、黒光する、閉まったままのガラス窓を
見ながら、そう、思ってます。。。
我が家のすぐ北に8世帯入居できる2階建てのアパートが建っているので、
時々誰かが越してきたり、住人が引越して行ったりします。
あまり付き合いはないですが、なかには、親しく挨拶を
させていただく方もいます。
このまま、時が過ぎて行く~と、油断していると、誰かが
突然引越していったりします。
お付き合いはなくても、やはり、人がいなくなるというのは、
寂しいものです。
母もそうでしたが、
いつも、別れは突然やってきます。
悲しいです・・
2018年10月
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