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考察 巻第3ー挽歌420~425 石田王 丹生王 磯城皇子 紀皇女 その弐

12月2日 
紀皇女(きのこうじょ)は 天武天皇の娘です。
母は 蘇我赤兄の娘 太蕤娘(おおぬのいらつめ)です
同母兄弟に 穂積皇子 田形皇女 がいます。
磯城皇子も 天武天皇の皇子です
母は 宍戸臣大麻呂(ししひとのおみおおまろ)の娘 かじ姫娘 です
同母兄弟に 忍壁皇子(おさかべのみこ) 泊瀬部皇女(はつせべのこうじょ)
託基皇女(たきのこうじょ)がいます。
天武天皇の妻は 他に 持統天皇、持統天皇の姉、天智の娘(大江皇女)、額田王、
藤原鎌足系の氷上娘(ひかみのいらつめ)五百重娘(いおえのいらつめ)
と そうそうたる人たちです。
紀皇女の母は 蘇我赤兄の娘ですが
赤兄は 壬申の乱で 敗れた大友皇子派だったため
息子とともに流刑となり 遠くの土地に流されています。
ので 紀皇女の母は 父方の後ろ盾のない姫なのです。
まあ 母方の援助を受けていたのでしょうが
はっきり言って 天武朝においては 他の妃の子どもたちと比べて
あまり重要視されない家族ではなかったのではないかと思いました。
磯城皇子のところも 他に引け目を感じていたような。。
長男の忍壁皇子 以外の皇子・皇女は
あまり重要視されてなかったのでは。。と私は勝手に思います。
それは 天武の正妻が あの 持統天皇だからです。
そして 天武天皇亡き後 実権を握ったのは 
その持統天皇と 藤原不比等です。
他の妻たちは はっきり言って 
その存在が かすんでしまっていたのではないかという気がします。。
万葉集は 特に亡くなったときの事情が多々ありそうな方の作品を載せています。
多分 この石田王も 何か事情がおありになった方なのでしょう。。
大津皇子のように 死に追いやられたのではないにしても
ちょっといわくがありそうです。
なぜかというと、丹生王の詠んでる歌が やや長いのです。。
例としては 
皇太子のまま亡くなった草壁皇子のために 
柿本人麻呂が詠んでる長文の歌があります
他には 明日香皇女、 忍壁皇子 高市皇子が亡くなったとき
柿本人麻呂が詠んだ長文があります
弓削皇子が亡くなったときの 置始東人(おきそめのあづまひと)
(高級文官らしい)
の歌で やや長い歌があります
つまり 天皇や皇子クラスの方が 
死のときに詠まれる歌を 
王クラスの石田王も 詠んでもらって、
それが どういうわけか万葉集に載ってるということです。
(普通でしたら 万葉集には載らないと思うのです)
そして それを詠んでいる謎の人 。。丹生王。。
皇族の死のときに 歌を詠む方は
きっと そういう方面に優れた方なのでしょう。
額田王や 柿本人麻呂 と並んでもいいほどの歌詠み。。
丹生王は 妻だったという説もありますが
妻というのは 普通の五・七・五・七・七を 詠むのではないかと
私は勝手に思うのですよ。。
歌 特に長い歌は 一種の祝詞ですから 
普通の人である妻には無理なのではないかと
思う次第であります。
昔は言霊といって 言葉には魂があると思われていました。
皇族の方を天に送るには やはりそれなりのサイキック能力のある方が 
弔文を詠まないと いけないと思うのです。。
で その歌ですが
ちょっと激しいのです
悔しきこと という表現が 2回も出てくるのです
普通ですと 
生前はこんなに素晴らしいお方だった
なのに天へ逝ってしまう。。 ああ どうして。。
みたいな 美辞麗句を並べた歌が多いのですが。。
この丹生王の歌は やや異質です。
まあ 妻が感情的に作った歌と言えばそれまでですが。。
でも そういう感情的な歌をどうしてまた 万葉集に
載せたかが 私には 不思議なのです
そこで 私は考えました。
この石田王=磯城皇子
   丹生王=紀皇女
では ないかと。。
万葉集得意(勝手に)の 名前すり替えです。。
石田は 磯の石。 田は 中に 土があるので 城の土
紀皇女の 丹生は。。
以前 弓削皇子の兄 長皇子が詠んだ歌に
丹生の河 瀬は・・・(2-130)
っていうのがありまして  これはどうやら
丹生川みたいに激しい流れの恋に苦しんでる弟 弓削皇子に贈った歌のようですが
(弓削皇子から 紀皇女への激しい恋の歌は 4首
万葉集に載っています)
この歌からとって
丹生=紀皇女になったのではないかと 私は勝手に思います。。
そして 万葉集の作者は 意図的に
後から出てくる 丹生女王と この丹生王を
読者が混同してくれたらいいな、と
狙ったような気がします。。
と こんなことを 考えていたら
紀皇女の生涯が 浮かんできました。
母方のおじいちゃん蘇我赤兄は 流罪で遠い島にいる。
もしかしてもう 死んでしまったかも。
お父さんと争って 敗れた大友皇子の臣 だったから
母は口には出さないけど きっと心を痛めてる
そういう中で 育ってきて
父も亡くなった
権力は 持統天皇と 藤原家に握られた。
年頃になると 弓削皇子様に思いをよせられる。
が 楽しい時もつかの間。
弓削様は 先に死んでしまう。
そして 新しい恋。 上からの命令だったけど
磯城皇子と 結婚。
磯城皇子は 自分と同じく影の薄い家の皇子だった。
長男の忍壁皇子の存在に隠れている次男。
お互いを慰めあい おだやかに日々を過ごした。
でも 楽しい時もまた終わってしまう。
磯城様も先に亡くなってしまった。
悲しみにひたっていたら さらに追い討ち。
磯城様のご遺体を 天皇の命令で高松塚に移すことになったという。
高松塚は 亡き皇太子 草壁皇子のために作っていた陵のはず
草壁皇子は 他の場所に葬られることになったという
思わず 大津皇子のことが頭に浮かんだ
持統天皇によって追い詰められ 死を賜わった大津皇子
ご遺体は 西の 遠い二上山の頂上に移された
姉の大来皇女様は 歌を詠んで嘆いてらした
伊勢斎宮をなさっていた大来様が嘆くということは
大津様はきっと 何か 恐ろしい呪詛に使われるということなのだろう
私の夫 磯城様も 
呪詛に使われてしまうに違いない
悔しきこと
持統天皇と 藤原不比等が憎い
兄 穂積が 高市様と結婚なさっていた但馬皇女と逢い
志賀の山寺に追いやられてから
私も 穂積の妹として 変な目で見られるようになってきた。
おつきあいした方 2人が先に死んだという事も関係するのだろう
好奇の目で見られるようになってしまった
うとましかった
弓削皇子様 磯城皇子様のご冥福を祈りながら
ひっそり過ごす日々だったのに
宮で すれ違っただけの まだ少年の高安王と 
あろうことか 噂がたち 責められた
わかっている 
きっと 藤原不比等の企みだ
藤原出身の娘を次の天皇の妻にしたいために
他の皇女の格を落としまくっているのだろう
お叱りを受けている最中に 密告した者が
馬に乗って えらそうに来たので 思わず
おまえのせいだろう!
心の中で叫んだ
後日 歌にしたら あっという間に
藤原家を憎むものたちの間で 密かに広まってしまったという
侍女が教えてくれた。
高安王も 遠い地へ とばされてしまったという
ほとぼりがさめれば 戻れるとは思うけど
お気の毒な事である
私の人生
きっと 後世の人からは 恋多き愚かな女性と 言われるのだろう
磯城様のご友人 山前王様 だけが真実をわかってくれるのが救いだ。
私の亡き後は 夫 磯城様に代って 歌を詠んでいただけるように
お願いした。
こんな自分だけど 磯城様から受けた たくさんの愛情を忘れないでいたい
死後も 磯城様の呪詛が解ける様 願い続け
磯城様が 目覚める時まで そばにいたいと思う

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